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「画家アルフォンス・ミュシャ死去」

作曲家。 日本では 「モルダウ」 がよく知られている。 連作交響詩 「わが祖国」 でチェコ国民に歴史と向き合い方を示唆したミュシャ、イラーセクとともにチェコで最も大切な芸術家。 プラハの春音楽祭はスメタナの命日5月12日に 「わが祖国」 をスメタナ・ホールで演奏して幕を開ける。

作家。「おばあさん」 「十二の月たち」 など昔話やおとぎ話の形でチェコの心を描いた。

指揮者。アウシュビッツから奇跡的に生還してクベリーク亡命後のチェコ音楽界を支えた。 1968年のプラハの春後のソ連侵攻のときアメリカ演奏旅行中だったため祖国に戻ることができないまま1973年にカナダで客死した。

詩人。 プラハ城からカレル橋に至るネルーダ通りに彼の名がつけられている。
チリのノーベル賞作家パブロ・ネルーダは尊敬するネルーダの名前をペンネームにした。

彫刻家。 ヴァツラフ広場にある聖ヴァツラフ像がもっとも有名。 ヴィシェフラッド城跡にもリブシェ像など、チェコの歴史や伝説を語る彫刻が各地にある。
ヴィシェフラッドの墓地に隣接するところにもリブシェ王女像をはじめチェコ史人物の彫刻作品がある。
(写真は 聖ヴァツラフ像)

ヨゼフ・ミスルベク
1848 - 1922

ヤン・ネルーダ
1834 - 1891

ヴォジェナ・ニェムツォヴァ
1820 - 1862

ベドジフ・スメタナ
1824 - 1884

カレル・アンチェル
1908 - 1973

彫刻家。 プラハ旧市街広場のヤン・フスの像が有名。 この象はフス処刑500年を記念して1915年に建立された。(ヤン・フス像)

建築家。 プラハ・ヴァツラフ広場正面の国立博物館はシュルツが設計した建築。

ヨゼフ・シュルツ
1840 - 1917

ラディスラフ・シャロウン
1870 - 1946

女優。「ヒヤシンス姫」 を演じミュシャのポスターのモデルになった。 チェコの国民的舞台女優でヨーロッパで最初の映画女優になった。

「イジー・ムハ」 (2011, プラハ ヨラナ・ショポヴォヴァ著) の表紙

 詩人、作家としてだけでなく、チェコのペン・クラブ (著作家・編集者などの国際会議。日本では川端康成、井上靖などが会長をしていたことがある) の会長をつとめるなどチェコ文化に多大な貢献をしたイジー・ムハ (ジリ・ミュシャ) を記念して没後20年の2011年にイジー・ムハの伝記が出版され、プラハでは没後20年の記念集会がありました。

ミュシャの死を伝えるチェコの新聞
1939年7月15日付

 7月14日はミュシャの命日です。 アルフォンス・ミュシャ (ムハ) は1860年に現在のチェコ共和国南モラヴィア (当時はオーストラリア領) のイヴァンチッツェに生まれ、1939年7月14日、プラハ市プベネチの自宅で亡くなりました。
 ミュシャが亡くなる4ヶ月前の1939年3月、チェコを併合したナチス・ドイツがプラハに侵攻し、祖国愛を表現する作品を描いていたミュシャは、ナチスから危険視されてゲシュタポに逮捕投獄され厳しい尋問を受けました。 数日で釈放されましたが、高齢になっていたミュシャは健康を害して7月に亡くなりました。
 ミュシャの遺体は、ドヴォルザークやスメタナ、カレル・チャペックなどチェコ最高の芸術家、文化人が眠るヴィシェフラッド墓地の その中でも特別なスラヴィーン廟に安置されています。
 ナチス支配下の当時、市民の集会は禁止されていましたが、ミュシャの葬儀は自然にナチスに対する抗議集会のようになり、チェコの人々の心の支えになりました。

ミュシャの死を伝える記事

 チェコ国民にとって大切な芸術家たちが眠るヴィシェフラッド墓地は チェコ建国伝説のヴィシェフラッド城跡にあります。
 ミュシャとかかわりの深い画家たちや、日本でもよく知られている音楽家 ドヴォジャーク
(ドヴォルザーク)、スメタナ、作家のチャペックなどもここに眠っています。

 今日、私たちがアルフォンス・ミュシャの作品を楽しむことができるのは、イジー・ムハの研究と収集のおかげです。 たびたび来日しミュシャ・コレクターの土居君雄さんと協力して活動しました。 ドイ・コレクションの充実も日本でミュシャが知られるようになったのも土居君雄さんとの協力のおかげです。
 墓碑に飾られている本はイジー・ムハの著作。 (「アルフォンス・ミュシャー生涯と芸術ー」 はこれをもとに加筆・再構成して1989年に出版した。 日本語版はドイ文化事業室が出版。)

小説家、詩人。 ミュシャ最初の挿絵本 「アダミテ」 の作者
ヴルタヴァ(モルダウ)川の橋のひとつに彼の名がつけられている。

ヴォイチェフ・ヒナイス
1854 - 1925

アントニーン・ドヴォジャーク
(ドヴォルザーク)
1841-1904

カレル・チャペック
1890 - 1938

作曲家、指揮者。 「ヒヤシンス姫」 を作曲した国民的音楽家。 

オスカー・ネドバル
1874 - 1930

スヴァトプルク・チェフ
1846 - 1908

アンドゥラ・セドラチコヴァ
1887 - 1967

グラフィック画家。 ミュシャの葬儀では弔辞を読んだ。 ミュシャ生誕100年記念の肖像切手をはじめチェコの切手の原画デザインを数多く手がけている。

マックス・シュヴァビンスキー
1873 - 196

パリでミュシャと交流のあったチェコの画家。(「春」から。切手)

ミュシャと同時代のチェコ画壇の中心画家。 1902年のロダン展にロダンとミュシャを招いた。(挿絵から)

20世紀前半の伝説的な名ヴァイオリニスト。 美しい音色と超絶的な技巧で世界を魅了したといわれる。 アメリカでミュシャと交流があった。 ラファエル・クベリークの父。

20世紀後半の代表的指揮者、プラハの春音楽祭の創設者。 ヤン・クベリークの長男。 チェコが共産党支配になり国外に亡命。シカゴ、ミュンヘンで活躍した。 1990年、自由化後初めてのプラハの春音楽祭に42年ぶりに祖国に戻って「わが祖国」を指揮した。 その時の名演奏CDとともにドキュメンタリービデオがある。 ミュシャの子息イジー・ムハとも交友があった。

作曲家。 交響曲 「新世界」、スラヴ舞曲、ユーモレスク、モルダウなどが世界中で親しまれている。 メロディ作曲の才能はブラームスがうらやんだほど。 (シャロウン制作の墓碑彫刻)

作家。 幅広い文筆活動が日本でも親しまれている。 「ロボット」 の造語で知られる。 「長い長いお医者さんの話」 や 「ダーシェンカ」、「園芸家12ヶ月」 「山椒魚戦争」 など、童話、随筆、紀行文がある。

ラファエル・クベリーク
(クーベリック)
1914 - 1996

ミコラーシュ・アレシュ
1852 - 1913

ヤン・クベリーク
(クーベリック)
1880 - 1940

ヴィシェフラッド墓地スラヴィーン廟 (左) とミュシャの墓碑 (右)

 ミュシャと同じ墓碑に名前が刻まれているのはヤン・クーベリック (ヴァイオリニスト) とラファエル・クーベリック (指揮者) 父子。
 1991年に亡くなったミュシャの息子のイジー・ムハ (Jírí Mucha 作家、詩人) もヴィシェフラッドに埋葬されています。

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ミュシャの息子イジー・ムハJiří Mucha 1915-1991)