ジリさん
 ミュシャの息子イジー・ムハ
(Jiří Mucha)は1915年3月12日にプラハで生まれました。
 今日、私たちがアルフォンス・ミュシャの作品を楽しむことができるのはイジーの研究と収集のおかげです。
 出版や展覧会で父ミュシャの復活に尽力したイジーはたびたび来日してミュシャ・コレクターの土居君雄さん
(1926-1990)と協力し、ミュシャの普及につとめました。土居コレクションの充実も、日本でこれほどミュシャが知られるようになったのもイジーと土居君雄さんの活動のたまものです。知的でユーモアにあふれるたいへん魅力的な人柄で、彼を知る日本の関係者はローマ字読みで「ジリさん」と親しみを込めて呼んでいました。
作家、詩人、ジャーナリスト、さらに
 1915年にプラハで生まれたイジーはズビロフの「スラヴ叙事詩」アトリエで父の制作を見ながら育ちました。ミュシャは息子が画家になることを望んで絵筆を持たせた写真を撮り肖像画も描いています。しかし10代から文筆の才能で注目されていたイジーは作家、ジャーナリストとして活躍をはじめます。
 第二次大戦中はパリ、ロンドンでBBC
(英国放送協会)の報道員、また空軍将校の立場でチェコスロヴァキア亡命政府に協力していました。戦後はプラハに戻り母マルシュカ(Marška, Marie Muchová 1882-1957)と暮らしていましたが、1948年にチェコスロヴァキアが共産党の一党支配体制になると、イジーを危険視した共産党はロンドンでの活動を理由にスパイ行為の嫌疑を被せ1951年から56年まで6年間投獄しました。釈放後イジーは、投獄前から母とともにはじめていた父の作品の再評価のために研究、出版・収集、展覧会などの活動に精力を注ぎました。その中で日本人コレクターの土居君雄さんと終生の親交をむすび、土居コレクションの充実とともに各地でミュシャ展を開催し、世界で初めてとなるミュシャ美術館を実現させるために土居君雄さんと二人三脚で活動しました。
音楽とともに
 父と同じく音楽を愛したイジーには、マルティヌー
(Bohuslav Martinu 作曲家 1890-1959)、フィルクシュニー(Rudolf Firksný ピアニスト 1912-1994)、クベリーク(Rafael Kubelík 指揮者 1914-1996)など音楽家たちとの交流がありました、1940年に結婚した妻のヴィーチェスラヴァ・カプラロヴァ―Viteslava Kaprálová 1915-1940)も作曲家、指揮者として活躍し注目されていました。イジーと同年のヴィーチェスラヴァは、残念なことに結婚わずか2ヶ月に25才の若さで結核のために亡くなりましたが、没後80年を経てカプラロヴァーの評価はますます高まり、彼女の作品の演奏はもちろんカプラロヴァーに因む音楽会、音楽祭が世界中で盛んです。
父とともに
 イジー・ムハは土居君雄さんが亡くなった半年後の1991年4月5日にプラハで亡くなりました。
 詩人、作家としてだけでなく、チェコ・ペンクラブ
(著作家・ジャーナリスト・編集出版界の国際会議。日本では島崎藤村、川端康成、井上靖、梅原猛らが会長をつとめた。現在は吉岡忍会長)の会長をつとめ、1989年のビロード革命(チェコスロヴァキアの無血でしなやかな政権移行による自由化)にも寄与するなど、チェコ文化に多大な貢献をしたイジーはチェコの著名な文化人が眠るヴィシェフラッド墓地の、父アルフォンス・ミュシャの墓からも近いところに葬られました。
 没後20年を記念して2011年にプラハでイジー・ムハ記念シンポジウムが開催され、評伝が出版されました。その後もイジー・ムハに関わる出版が相次いでいます。
 イジーには、ヤルミラ・プロツコヴァー
Jarmila Mucha Plocková 1950生まれ)という娘さんがいます。画家アルフォンス・ミュシャのただ一人の孫です。イジーの母マルシュカとそっくりのヤルミラさんはイジーに造形デザイン力を認められ、自身の創作活動とともに、「装飾資料集」などミュシャがデザインだけのこした作品の現実化を続けています。ヤルミラさんにはアルフォンス・ミュシャの曾孫にあたるカタリーナさんとバルボラさん2人の娘さんがいます。

イジー・ムハ Jiří Mucha 1915-1991

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左 プラハ城内にある聖イジー教会ファサード。 上 破風の「竜を退治する聖イジー」像。
"イジー"は英語の"ジョージ"、フランス語"ジョルジュ"、ドイツ語"ゲオルグ"、ロシア語"イーゴリ"にあたるチェコ語の名前。教会への迫害あるいは異教徒を象徴する竜を退治する「聖ゲオルギウス伝説」(古事記の素戔嗚大蛇退治にも通じる)による。
 イジー・ムハが直接「聖ゲオルギウス伝説」に因んで名づけられたかはわからないが、"イジー"という名前は聖イジーに因んでおり、チェコでは"ヤン"、"ヴァツラフ"などとともに男性では一般的でたいへん多い名前。
 920年創建の聖イジー教会は木造だった会堂が焼失して1142年にロマネスク様式で再建した。改装を重ねたファサードは17世紀のバロック様式。973年に拡張された女子修道院部分は社会主義時代以降プラハ国立美術館のチェコ及び中央ヨーロッパ美術ギャラリーになっている。
ブルノ放送管弦楽団を指揮するカプラロヴァー
1937年頃(22才)
結婚式当日のイジーとカプラロヴァー
1940年パリ (共に25才)
カプラロヴァー生誕100年記念切手
(チェコ 2015年)

イジー・ムハ 1987年
(プラハ 72才)

ヤロスラヴァとイジー 1921年
(マサチューセッツ州ケープ・コッド 6才)

イジーの姉ヤロスラヴァ(1909-1986)
(アルフォンス・ミュシャの長女) 1958年

「スラヴ菩提樹の下で宣誓する若者たち」 (部分)
少年のモデルはイジー・ムハ(11才)
"スラヴ叙事詩" 1926年

「息子イジーの肖像」油彩 1925年頃

右端がイジー・ムハ(23才)
左から ヨゼフ・パーレニーチェク(ピアニスト、作曲家 1914-1991)
ボフスラフ・マルティヌー(作曲家 1890-1959)
ルドルフ・フィルクシュニー(ピアニスト、作曲家 1912-1994)
パリ・リュクサンブール庭園で 1938年

パリ・ヴァルドグラース街 左側の建物2階にミュシャのアトリエがあった。
 第二次世界大戦が始まるとイジーはチェコスロヴァキア軍を組織する仕事のために、画家ホフバウアー(Charles Hoffbauer)がアメリカへ出かけている間パリの留守宅を借りた。そこは1896年から1903年までミュシャのアトリエだった。1939年7月14日にイジーはここで父の死を知らせる電報を受け取った。
 右の写真は、かつてのアトリエを訪れたミュシャ。ヴァルドグラース街建物の中庭で。(1937年頃)、
 ミュシャのアトリエを記念するプレート。入口右側にプレートが見える。
 イジー・ムハの墓(左)とアルフォンス・ミュシャの墓(右)。プラハ・ヴィシェフラッド墓地。
 イジーの墓は二人目の妻ジェラルディンを合葬するために2012年に墓石が取り替えられた。

イジー・ムハと土居君雄さん
土居君雄さんが開催したミュシャ展会場で 1983年頃(68才)

絵筆を持つイジー 10才頃

「息子イジーの肖像」パステル 1925年頃

イジーの母マルシュカ 1905年
(アルフォンス・ミュシャの妻)

イジーの娘ヤルミラ・プロツコヴァー
2008年
(アルフォンス・ミュシャの孫)

イジーの孫カテリーナさんとバルボラさん
ヤルミラの娘さん 2009年
(アルフォンス・ミュシャの曾孫)

「イジー・ムハ評伝」表紙
2011年

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