ミュシャの娘ヤロスラヴァは1909年にニューヨークで生まれました。『スラヴ叙事詩』制作の資金を得るためにミュシャがアメリカに拠点を移していた時期だったからです。ヤロスラヴァが生まれた年の暮れに計画実現の目途がたって、翌1910年に一家はプラハの西にあるズビロフに移ります。
父の仕事を間近に見ながら時に作品のモデルになり、時に父の制作を子どもなりに手伝って育ちました。成長してヤロスラヴァが絵画修復の専門家になったのはそのような環境で育ったことが背景にあったのでしょう。ナチスドイツの略奪から守るため急いで隠してダメージを受けてしまった『スラヴ叙事詩』の修復活動にヤロスラヴァは大きな役割を果たしました。
ヤロスラヴァは、ミュシャ没後50年展(1989年)で『スラヴ叙事詩』を日本で初めて公開する契約を見届けるようにして1986年11月に亡くなりました。今は母のマルシュカと同じ墓に眠っています。
彼女の生涯は『スラヴ叙事詩』とともにあったといえるでしょう。
幼子を抱く「チェヒア」
『ハーモニー』から (部分 1908年)
『ハーモニー』 (1908年)
1908年の『ハーモニー』はアメリカ滞在中の代表的な油彩です。「人類の進歩には様々な要素がありそれぞれが大いなる調和の中にある」というテーマの縦1.3メートル
横4メートルもある大作です。
『ハーモニー』の左側には幼子を抱いた女性が描かれています。この女性は「チェヒア」といって「チェコを象徴するお母さん」です。チェヒアが抱いている幼子は未来に生まれてくるべきチェコ(チェコスロヴァキアの独立は1918年のことで、この絵を描いている1908年当時はまだオーストリア帝国領であり独立への道筋はまだ見えていなかった)です。
『ハーモニー』はチェコの人たちに語りかける作品ですが制作しているときミュシャの妻マルシュカはミュシャにとって初めての子(ヤロスラヴァ)を宿していました。『ハーモニー』はチェコとともにこれから生まれてくるわが子を祝福し"未来の希望"を希求する作品でもあったのです。