7月14日はミュシャの命日です。

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ミュシャの娘 ヤロスラヴァ 絵画修復家
ミュシャの死を伝えるチェコの新聞

 アルフォンス・ミュシャ1939年7月14日、79才になる誕生日10日前にプラハ市ブベネチの自宅で亡くなりました。
 亡くなる4ヶ月前の1939年3月にナチス・ドイツがプラハに侵攻してチェコを併合。ゲシュタポ(国家秘密警察)は、祖国愛を表現する作品を描いていたミュシャを危険視して逮捕拘留し、厳しい尋問を受けました。数日で釈放されたものの、高齢のうえ前年に肺炎を患っていたミュシャは健康を害して7月に亡くなりました。
 ミュシャの遺体は、ドヴォルザークやスメタナ、チャペック兄弟はじめチェコ最高の芸術家、文化人の眠るヴィシェフラッド国民墓地の、その中でも特別なスラヴィーン霊廟に葬られました。ナチス占領下で市民の集会は禁止されていましたが、葬儀は自然にナチスに対する抗議集会のようになり、ミュシャはチェコの人々の心の支えになりました。
 ミュシャが晩年住んでいたプラハのブベネチにはミュシャの名前をつけた通りがあります。

 詩人。チェコ民衆の姿を暖かい詩情で表現した。プラハ城からカレル橋に至る「ネルーダ通り」に彼の名がつけられている。
 チリのノーベル賞作家パブロ・ネルーダは尊敬するヤン・ネルーダの名前をペンネームにした。

 指揮者。アウシュビッツから奇跡的に生還してクベリーク亡命後のチェコ音楽界を支えた。
 彼の指揮ではすべての音楽が今その瞬間にそこで生まれていると感じさせる鮮烈な名演奏だった。
 1968年のプラハの春後のソ連侵攻のときアメリカ演奏旅行中だったため祖国に戻れないまま1973年にカナダで客死。遺灰がチェコに戻って埋葬された。

 作曲家。日本では『モルダウ』がよく知られている。連作交響詩『わが祖国』でチェコ国民に歴史と向き合い方を示唆した。ミュシャ、イラーセクとともにチェコで最も大切な芸術家。
 プラハの春音楽祭は毎年、スメタナの命日5月12日に『わが祖国』をプラハ市民会館スメタナ・ホールで演奏して幕を開ける。

 作家。幅広い文筆活動が日本でも親しまれている。"ロボット"の造語で知られる。『長い長いお医者さんの話』や『ダーシェンカ』、『園芸家12ヶ月』、『山椒魚戦争』など、童話、随筆、紀行文がある。
 兄でグラフィック作家のヨーゼフもヴィシェフラッドに眠っている。
 ブルノのギムナジウムでミュシャの30年後輩。お互いの晩年に短い間の交流があった。

 ミュシャの娘ヤロスラヴァは1909年にニューヨークで生まれました。『スラヴ叙事詩』制作の資金を得ようとミュシャがアメリカに拠点を移していた時期だったからです。ヤロスラヴァが生まれた年の暮れにようやく計画実現の目途がたって、翌1910年に一家はプラハの西にあるズビロフに移ります。
 父の仕事を間近に見ながら、時に作品のモデルになり、時に父の制作を子どもなりに手伝って育ちました。成長してヤロスラヴァが絵画修復の専門家になったのは、そのような環境で育ったことが背景にあったのでしょう。第二次大戦中にナチスドイツの略奪から守るため急いで隠してダメージを受けてしまった『スラヴ叙事詩』の修復活動に戦後、ヤロスラヴァは大きな役割を果たしました。
 ヤロスラヴァは、1989年のミュシャ没後50年展で『スラヴ叙事詩』を初めて日本で公開するための契約を見届けるようにして1986年11月に亡くなりました。彼女の生涯は『スラヴ叙事詩』とともにあったといえるでしょう。今は母のマルシュカと同じ墓で安らかに眠っています。

 ミュシャ没後30年の1969年、命日の7月14日にチェコはミュシャを記念する切手を4種発行しました。「プラハの春」と呼ばれるチェコ改革がソ連を中心としたワルシャワ機構軍侵攻によって圧殺された1968年8月からまもなく1年という時期です。
 武力制圧の年、1968年にもミュシャがデザインした『プラハ城切手』発行50年を記念する切手をチェコ独立50年にあわせて発行しました。

ミュシャの息子 イジー・ムハJiří Mucha 1915-1991)
イジー・ムハの墓
イジー・ムハ 評伝 表紙
切手 四芸術(デッサン) 初日カバー
初日カバー消印
切手 四芸術(デッサン)
切手 四芸術(デッサン)
切手 四芸術(デッサン)
切手 四つの宝石
カプラーロヴァー生誕100年記念切手(2015年)
ミュシャの妻 マルシュカ
ミュシャの孫 ヤルミラ・プロツコヴァーさん
ミュシャのひ孫
カプラロヴァー 生誕100年 切手
ミュシャの娘 ヤロスラヴァ
Jaroslava Muchová Syllabová
(1909-1986)
ミュシャの家族
ヤロスラヴァ 5才
「ハーモニー」
チェヒア 「ハーモニー」から
「予言者 リブシェ」 マシェック

 「ヴィシェフラッド(高い城)」はプラハ市南部にあり、リブシェ伝説の地。チェコ最初のプジェミスル王朝とプラハの栄光を示した予言者リブシェの城跡とされ、チェコ国民の魂の故郷である。
 19世紀の民族主義の高まりとともに、枢機卿で詩人のシュトゥルツ
(Václav Svatopluk Štulc 1814-1887)の発案で「ヴィシェフラッド」にチェコの民族墓地を定めた。
 ミュシャをはじめ、チェコ国民にとって大切な芸術家たちが眠っており、日本人がよく知っているドヴォジャーク
(ドヴォルザーク)、スメタナ、チャペック兄弟の墓もヴィシェフラッドにある。

ヴィシェフラッド国民墓地
リブシェ
アンドゥラ・セドラチコヴァー
オスカー・ネドヴァル

 女優。『ヒヤシンス姫』を演じ、ミュシャのポスターのモデルになった。
 チェコの国民的舞台女優でヨーロッパで最初の映画女優になった。

 小説家、詩人。 ミュシャ最初の挿絵本『アダミテ』の作者ヤナーチェクのオペラ『ブロウチェク氏の月と15世紀への旅』原作者。
 プラハ市内ヴルタヴァ(モルダウ)川の橋のひとつに彼の名がつけられている。

作曲家、指揮者。『ヒヤシンス姫』を作曲した国民的音楽家。草創期のチェコフィルハーモニーに尽力した。 

「パリスの審判」切手 ヴォイチェフ・ヒナイス

 パリでミュシャと交流のあったチェコの画家。国民劇場の壁画『パリスの審判』を描いた。
 (『春』から。切手)

マクシミリアン・シャヴァビンスキー

 グラフィック画家。ミュシャの葬儀では弔辞を読んだ。ミュシャ生誕100年記念の肖像切手をはじめ。切手の原画デザインを数多く手がけている。

ヴォイチェフ・ヒナイス
1854 - 1925

マックス・シュヴァビンスキー
1873 - 1962

オスカー・ネドバル
1874 - 1930

アンドゥラ・セドラチコヴァー
1887 - 1967

スヴァトプルク・チェフ
1846 - 1908

スヴァトプルク・チェフ
アントニーン・ドヴォジャーク
ヤン・クベリーク
ラファエル・クベリーク

 20世紀前半の伝説的な名ヴァイオリニスト。美しい音色と超絶的な技巧で世界を魅了したといわれる。作曲家でもある。アメリカでミュシャと交流があった。ラファエル・クベリークの父。

 作曲家。交響曲『新世界』、『スラヴ舞曲』、『ユーモレスク』などが世界中で親しまれている。メロディ作曲の才能はブラームスがうらやんだほど。(シャロウン制作の墓碑彫刻)

ミコラーシュ・アレシュ

 ミュシャと同時代のチェコ画壇の中心画家。国民劇場ホワイエの『祖国』連作で知られる。
 1902年のロダン展にロダンとミュシャを招いた。(挿絵から)

ラファエル・クベリーク
(クーベリック)
1914 - 1996

ヤン・クベリーク
(クーベリック)
1880 - 1940

ミコラーシュ・アレシュ
1852 - 1913

カレル・チャペック
1890 - 1938

アントニーン・ドヴォジャーク
(ドヴォルザーク)
1841-1904

切手 カレル・チャペック
ベドジフ・スメタナ
カレル・アンチェル
ヨゼフ・ミスルベク
ヴォジェナ・ニェムツォヴァー
ヤン・ネルーダ

 作家。『おばあさん』、『十二の月たち』など、昔話やおとぎ話の形でチェコの心を民衆の言葉で描いた。散文のボヘミア文学創始者。

 彫刻家。ヴァツラフ広場にある『聖ヴァツラフ像』がもっとも有名。チェコの歴史や伝説を語る記念碑的彫刻が各地にある。
 ヴィシェフラッドの墓地に隣接するところにも『リブシェ王女』、『シャールカ』などチェコの歴史、伝説の人物彫刻作品がある。
(写真は『聖ヴァツラフ像』)

ヨゼフ・ミスルベク
1848 - 1922

ヤン・ネルーダ
1834 - 1891

ヴォジェナ・ニェムツォヴァー
1820 - 1862

ベドジフ・スメタナ
1824 - 1884

カレル・アンチェル
1908 - 1973

 ミュシャと同じ墓碑に名前が刻まれているのはヤン・クベリーク(クーベリック) とラファエル・クベリーク(クーベリック) 父子。父親でヴァイオリニストのヤンはミュシャと、指揮者のラファエルはミュシャの息子イジーと交友があった。

ラディスラフ・シャロウン
国立博物館 ヨゼフ・シュルツ
アントニーン・ヴィール
『絵画』と『音楽』(『四芸術』のデッサン)切手のFDC(初日カバー)
ヴィシェフラッド墓地 スラヴィーン霊廟

 20世紀後半の代表的指揮者、「プラハの春音楽祭」の創設者。ヤン・クベリークの長男。チェコが共産党支配になり国外に亡命。シカゴ、ミュンヘンはじめ世界でで活躍した。
 1990年、自由化後初の「プラハの春音楽祭」に42年ぶりに祖国に戻って『わが祖国』を指揮した。その時の名演奏CDとともにドキュメンタリービデオがある。
 ミュシャの子息イジー・ムハとも交友があった。












ミュシャの死を伝える記事

前列左から ヤロスラヴァ、マルシュカ、イジー
後列 ミュシャ(1916年)
ポーズをとるヤロスラヴァ
(1914年)

イジー・ムハの墓 (ヴィシェフラッド墓地)

『イジー・ムハ』 伝記表紙

イジー・ムハと土居君雄さん
「カメラのドイ」ギャラリーで開催したミュシャ展会場で
イジー・ムハと土居君雄さん

 今日、私たちがアルフォンス・ミュシャの作品を楽しむことができるのはイジー・ムハの研究と収集のおかげです。たびたび来日し、ミュシャ・コレクターの土居君雄さん(1926-1990)と協力してミュシャの普及につとめました。日本で彼を知る人は「ジリさん」とローマ字読みで親しみを込めて呼んでいます。土居君雄コレクションの充実も、日本でこれほどミュシャが知られるようになったのも、イジー・ムハと土居君雄さんの活動のたまものです。
 1915年にプラハで生まれたイジーはウィットに富み、父親のミュシャもそうだったろうと思わせる大変魅力的な人柄で、詩人、作家、ジャーナリストとして尊敬を集めています。没後20年の2011年にはプラハで記念集会があり伝記も出版されました。
 第二次大戦中は、ロンドンでBBC
(英国放送協会)の報道員、また空軍将校の立場でチェコスロヴァキア共和国亡命政府に協力していました。戦後はプラハに戻り、母マルシュカ(Maruska Muchová 1882-1959)と暮らしていましたが、1948年にチェコスロヴァキアが共産党の一党支配体制になると、共産党はイジーのロンドンでの活動にスパイ嫌疑をかぶせて、1951年からスターリン没後の1956年まで6年間投獄しました。釈放後は出版活動とともに父の作品の再評価に精力を注ぎます。その中で日本人コレクターの土居君雄さんと終生の親交をむすんで土居君雄コレクションの充実とともに、各地でミュシャ展を開催し、世界で初めてとなるミュシャ美術館を日本に実現させるために土居君雄さんと二人三脚で活動しました。
音楽とともに
 父と同じく音楽を愛したイジーは
音楽家たちとの交流がありました。
 妻のヴィーチェスラヴァ・カプラーロヴァ―
Vítěslava Kaprálová 1915-1940)も作曲家、指揮者として活躍し世界中から嘱目されていました。イジーと同年に生まれたヴィーチェスラヴァは、残念なことに結核のため結婚わずか2ヶ月の25才で亡くなりましたが、年を追うごとに評価は高まって世界各地で彼女の作品が盛んに演奏され、彼女の名前を冠した音楽祭も盛んです。
父とともに
 イジー・ムハは、土居君雄さんが亡くなった半年後の1991年にプラハで亡くなりました。チェコ・ペンクラブ
(著作家・ジャーナリスト・編集出版界の国際会議。日本では川端康成、遠藤周作らが会長をしていた。現在は桐野夏生会長)の会長をつとめ、1989年のビロード革命(チェコスロヴァキア自由化の革命。政権移行を無血で達成した。)にも寄与するなど、チェコ文化に多大な貢献をしたイジーはチェコの著名な文化人が眠るヴィシェフラッド国民墓地の、父アルフォンス・ミュシャの墓にも近いところに葬られました。
 イジーにはヤルミラ・プロツコヴァーJarmila Mucha Plockováá 1950生まれ)というお嬢さんがいます。アルフォンス・ミュシャのただ一人の孫です。イジーの母マルシュカとそっくりのヤルミラさんはイジーに造形デザイン力を認められ、自身の創作活動とともに、アルフォンス・ミュシャがデザインだけ残した作品の現実化を続けています。ヤルミラさんにはお嬢さん、つまり画家ミュシャの曾孫にあたる方が2人います。

ミュシャの妻マルシュカ
イジー・ムハの娘ヤルミラ・プロツコヴァーさん
ヤルミラさんの2人の娘、ミュシャの曾孫
カテリーナさん(左)とバルボラさん(右)
絵画修復家ヤロスラヴァ
(1953年)

幼子を抱く"チェヒア"
『ハーモニー』から (部分 1908年)

 『ハーモニー』は、チェコの人々に「未来の希望」を語りかける作品。ミュシャが『ハーモニー』を制作しているとき、妻のマルシュカは、ミュシャにとって初めての子(ヤロスラヴァ)を宿していた。『ハーモニー』はチェコと共に、生まれてくるわが子の「未来の希望」を描いている。

『ハーモニー』 (1908年)土居君雄コレクション

『リブシェ』 (1917年)
プラハ国立美術館
『予言者 リブシェ』 (1893年)
マシェック(Karel Vítězslav Mašek)
オルセ美術館

 彫刻家。記念碑的彫刻を数多く残している。プラハ旧市街広場の『ヤン・フス記念』の像が有名。この像はフス処刑500年を記念して1915年に建立除幕された。(写真は『ヤン・フス記念像』)

 建築家。プラハ・ヴァツラフ広場正面の国立博物館はシュルツが設計した建築。
 国民劇場、芸術家の家をジーテク(Josef Žítek 1832-1909)と共作した。(写真は国立博物館)

 建築家。スラヴィーン霊廟の設計者。(棺に寄り添う『天才』の寓意像は彫刻家マンデル Josef Mander 1854-1920)
 現在スメタナ博物館になっている、カレル橋のわきの旧市街給水塔もヴィールの設計。

ヨゼフ・シュルツ
1840 - 1917

ラディスラフ・シャロウン
1870 - 1946

アントニーン・ヴィール
1846 - 1910

ミュシャ没後30年の1969年7月14日に発行した切手。左から、四芸術のデッサンからダンス絵画音楽と、四つの宝石からルビー』『アメジスト

ミュシャの墓碑(左)とヴィシェフラッド墓地スラヴィーン霊廟 (右)
スラヴィーン霊廟には、「彼ら死すとも なお語る」という言葉が「天才」の寓意象とともに刻まれている。
ミュシャの死を伝える新聞
1939年7月15日付
クリックで日本語
ミュシャの墓碑