教育と文化
シメオン(863頃-927)は、チェコではなくブルガリアの皇帝です。 しかし、この作品は「スラヴ叙事詩」の 「大モラヴィア国のスラヴ語礼拝式導入」 からつながり、さらに
「聖アトス山」 にもかかわるスラヴ文化全体の重要なテーマです。
大モラヴィア国では、メトジェイが亡くなった後ドイツ系の司祭に替わられてメトジェイの信奉者たちは追放され、その多くがシメオンの治めるブルガリアに定住しました。
そのため、ブルガリアはスラヴ語の教育と文学の中心となり、修道院生活の経験もある知識人のシメオン皇帝の下でスラヴ文学のコレクションが築かれ科学も花を開かせました。
シメオンは一時期東ローマ帝国を圧倒するほどの軍事力を持ち「ブルガリア人とローマ人の皇帝」を称することもありました。 しかし彼の偉大さは文化面での功績にあります。
彼の死後11世紀にブルガリアは東ローマ帝国に吸収されますがシメオンが集めたスラヴ文学の精華はギリシア正教会の聖地アトス山にあるいくつかの修道院に伝えられその後のスラヴ文化発展に寄与しています。
現在のブルガリアは王制ではありませんが、英国ウィリアム王子の婚儀には、元王家のシメオンさんが列席されていました。