7月24日は ミュシャの誕生日です。
7月14日はミュシャの命日です。
生誕100年記念碑
旧市庁舎 1960年(改装前)
聖母被昇天教会鐘楼から旧市庁舎を見る
鐘楼の影が見える。
現在の聖母被昇天教会(イヴァンチッツェ教区教会)
『イヴァンチッツェの地方展 ポスター』
1912年
ブルノから
「歩く前から描いていた」といわれるミュシャですが、少年時代にはむしろ歌とヴァイオリンの音楽の才能が注目されていました。裕福な家庭ではなかったため、イヴァンチッツェの音楽教師の薦めでブルノで修道院聖歌隊の給費生となってギムナジウム(大学進学前の中等教育学校)に進学することになりました。しかし、旧ブルノ修道院(聖母被昇天教会)に着いた時、一足違いで給費生の枠が満員になっていたため、かわりに聖ペテロ聖パウロ教会(ペトロフ)の聖歌隊給費生に推薦され、ギムナジウムに通いながら毎日聖歌隊で歌う生活を送りました(ギムナジウムの後輩には作家のカレル・チャペック Karel Čapek 1890-1938がいる)。
ブルノの数年間はミュシャを形成するあらゆる面で決定的な影響を与えています。「私が生涯愛したのは、絵画と教会と音楽」とミュシャ自身が語っているように、少年期に教会の聖歌隊でポリフォニー音楽を学んだことは、作品を理解するうえでも、彼の感性や生き方を考えるにも大きな意味を持っています。
ブルノでは旧ブルノ修道院聖歌隊で指導助手を務めていた6才年上のヤナーチェク(Leoš Janáček 1854-1928)と知り合い、2人の交流は終生にわたりました。世界的な芸術家となった2人を記念してブルノには、ミュシャの名は"通り"に、ヤナーチェクは"広場"に、それぞれの名前がつけられています。(ヤナーチェクの名は、劇場、音楽学校にもつけられている。)
ミュシャがブルノにいた頃の旧ブルノ修道院院長は、「メンデルの法則」で有名なメンデル(Gregor Johann Mendel 1822-1884)でした。"エンドウ豆の研究"はすでに終えていて修道院院長に専念していましたが、ブルノの中心的教会のペトロフと旧ブルノ修道院は関係が深く、活動を共にすることが多かったので、ヤナーチェクはもちろん、ミュシャもメンデル院長と挨拶を交わすほどのことはあったかもしれません。
ミュシャが生まれたのは、15世紀歴史的建造物の旧市庁舎に棟続きの建物でしたが、生家は取り壊されて今はありません。
イヴァンチッツェ地方裁判所の廷吏だった父オンジェイは当時の市庁舎に隣接する裁判所拘置所の一角を住居にしていて、ミュシャはそこで生まれました。ブルノから戻ってウィーンに向かうまではミュシャ自身も裁判所書記をしています。
生家はなくなりましたが、イヴァンチッツェ市は旧市庁舎を「アルフォンス・ムハ記念建築」として2階にミュシャ展示室をおいています。また、現市庁舎の近くにはミュシャを記念して「アルフォンス・ミュシャ」の名前をつけた道路があります。
イヴァンチッツェから
イヴァンチッツェは南モラヴィアの中心地ブルノから20kmほどにある小さな町です。15世紀にここを発祥とするモラヴィア兄弟団の教育活動はチェコのみならず世界の歴史に重要な影響を与えています。聖書を理想とする清貧、非暴力、自由、平等、兵役拒否の信条に根ざした彼らの生活と活動はカトリック教会の迫害で壊滅し、カトリックへの改宗を拒否する信徒は17世紀以降国外に追放されました。
しかし、そのためにかえってモラヴィア兄弟団の信条は世界中に広まり、現代の欧米の民主主義・プロテスタント思想・良心の礎になりました。
1578年にモラヴィア兄弟団によってイヴァンチッツェ近郊で翻訳・印刷された『クラリッツェ聖書』はチェコ語文法の基礎になっています。
イヴァンチッツェの教育
ミュシャはイヴァンチッツェの豊かな教育環境のもとで育ち、音楽教師フォルベルガー、美術教師のゼレニーに才能を見出されて未来を方向づけられました。ミュシャの教育については、ブルノのギムナジウムと聖歌隊、プラハの美術学校の入学失敗、ウィーンでの舞台美術工房、夜間講座、ミュンヘンの美術アカデミー、パリのアカデミー・コラロッシ、アカデミー・ジュリアンなどが知られていますが、母親の理解とともに故郷イヴァンチッツェの教育環境が画家としてだけでなく人間ミュシャの形成に非常に重要なはたらきをしています。
イヴァンチッツェの教会塔
『スラヴ叙事詩』 の1点は『クラリッツェ聖書を印刷するモラヴィア兄弟団学校』です。 この絵の場面はミュシャの生家から近く、 背景にはイヴァンチッツェのシンボルの教会塔(イヴァンチッツェ教区教会 聖母被昇天教会 鐘楼)も描かれ、画面に見える城壁はすでになくなってますが、地名に今も残っています。
幼い頃から塔を見上げ鐘の音を聞いて育ったミュシャは、生涯の転機のたびにイヴンチッツェの教会塔(鐘楼)を心に浮かべ、作品に描いています。
教会前のパラツキー広場をはさん向き合う旧市庁舎にはイヴァンチッツェ市のミュシ記念館があります。 少年ミュシャは後世そこに自分の記念館ができるとはもちろん想像するはずもなく、塔を見上げてスケッチに熱中していたでしょう。
『イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校』(『スラヴ叙事詩』)
ミュシャ記念館入口の銘板
ミュシャが聖歌隊で歌っていたブルノの聖ペテロ聖パウロ教会(通称ペトロフ)。 左から、内陣、2階聖歌隊席(オルガンの前)、外観。
ミュシャ生誕150年記念切手
(2010年 オーストリア発行)
生誕100年記念切手
(1960年 チェコ発行)
チェコ人「ミュシャ」
アルフォンス・マリア・ミュシャ (ムハ Alfons Maria Mucha)は、1860年7月24日(日本では江戸時代末期の万延元年)に、オーストリア帝国領モラヴィア(現在はチェコ共和国)のイヴァンチッツェに生まれました。父親はオンジェイ・ムハ(Ondřej Mucha)、母は後妻のアマリエ(旧姓マラー)。
ミュシャ(ムハ)の祖先は10世紀頃にはイヴァンチッツェに住んでいました。チェコの人々は6世紀から9世紀頃に現在のチェコ、モラヴィアの土地に移ってきて定住したようです。
ミュシャ(ムハ)の兄弟姉妹は、アロイジア、アントニア、アウグスト、アンナ、アンジェラと、みんな"A"で始まる名前です。おそらく父オンジェイ(アンドレアスのチェコ語名)に因むのでしょう。"マリア"というミドルネームは母アマリエの希望でつけられました。
「ムハ(Mucha、Moucha)」という名前はイヴァンチッツェに古くからあるごく普通の名前です。チェコ人の姓には変わった意味のものが多く、Mucha(Moucha) は昆虫のハエ(蠅)という意味です。
Mucha は 「ムハ」 と発音し、ドイツ語式の強い 「ムッハ」 ではなくチェコ語の 「ムハ」 は柔らかく発音します。
イヴァンチッツェ市 旧市庁舎 (左 改装前、15世紀の建築 右 現在) ミュシャ記念館が2階にある。