今日、私たちがアルフォンス・ミュシャの作品を楽しむことができるのはイジー・ムハの研究と収集のおかげです。
 たびたび来日しミュシャ・コレクターの土居君雄さん
(1926-1990)と協力してミュシャの普及につとめました。日本で彼を知る人は親しみを込めて「ジリさん」と呼んでいます。世界最高のミュシャ・コレクション、土居君雄コレクションの充実も、ミュシャが日本でこれほど広く知られるようになったのもイジー・ムハと土居君雄さんの活動のたまものです。
 1915年にプラハで生まれたイジーはウィットに富み、父親のミュシャもそうだったろうと思わせる大変魅力的な人柄で、詩人、作家、ジャーナリストとして亡くなった後も尊敬を集めています。没後20年の2011年にはプラハで記念集会があり、伝記も出版されました。
 第二次大戦中はロンドンで、BBC
(英国放送協会)の報道員また空軍将校の立場でチェコスロヴァキア亡命政府に協力していました。戦後はプラハに戻り、母マルシュカ(Maruska Muchová 1882-1959)と暮らしていましたが、1948年にチェコスロヴァキアが共産党一党支配体制になると共産党はイジーのロンドンでの活動にスパイ嫌疑をかぶせて1951年から56年まで6年間投獄しました。釈放後は、出版活動とともに父の作品の再評価に精力を注ぎます。その中で日本人コレクターの土居君雄さんと終生の親交をむすんで、ドイコレクションの充実とともに各地でミュシャ展を開催し、世界で初めてとなるミュシャ美術館を日本に実現させるために土居君雄さんと二人三脚で活動しました。
音楽とともに
 父と同じく音楽を愛したイジーは
音楽家たちとの交流がありました、
最初の妻のヴィーチェスラヴァ・カプラーロヴァ―
Vítěslava Kaprálová 1915-1940)も作曲家、指揮者として活躍し世界中から嘱目されていました。イジーと同年に生まれたヴィーチェスラヴァは残念なことに結核のため、結婚わずか2ヶ月の25才で亡くなりましたが、年を追うごとに評価は高まって世界各地で彼女の作品が盛んに演奏されています。
父とともに
 イジー・ムハは、土居君雄さんが亡くなった半年後の1991年にプラハで亡くなりました。チェコ・ペンクラブ
(著作家・ジャーナリスト・編集出版界の国際会議。日本では川端康成、井上靖らが会長をしていた。現在は桐野夏生会長)の会長をつとめ、1989年のビロード革命(チェコスロヴァキアの無血でしなやかな政権移行による自由化)にも寄与するなど、チェコ文化に多大な貢献をしたイジーはチェコの著名な文化人が眠るヴィシェフラッド国民墓地の、父アルフォンス・ミュシャの墓にも近いところに葬られました。
 イジーにはヤルミラ・プロツコヴァーJarmila Mucha Plockovááという娘さんがいます。アルフォンス・ミュシャのただ一人の孫です。祖母マルシュカとそっくりのヤルミラさんは造形デザイン力の信頼をイジーから受けて、自身の創作活動とともにアルフォンス・ミュシャがデザインだけ残した作品の現実化を続けています。
 ヤルミラさんには娘さん、つまり画家ミュシャの曾孫にあたる方が2人います。

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7月14日はミュシャの命日です。
7月24日はミュシャの誕生日です。

ミュシャの死を伝えるチェコの新聞
イジー・ムハと土居君雄さん
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 アルフォンス・ミュシャ1939年7月14日、プラハ市ブベネチの自宅で亡くなりました。79才になる誕生日の10日前です。
 亡くなる4ヶ月前の1939年3月にドイツがチェコを併合、プラハに侵攻したナチスのゲシュタポは、祖国愛をあらわす作品を描いたミュシャを危険視して逮捕拘留し厳しく尋問しました。数日で釈放されたものの、高齢のうえ前年に肺炎を患っていたミュシャは健康を害して7月に亡くなりました。
 ミュシャの墓は、ドヴォルザークやスメタナ、チャペック兄弟はじめチェコ最高の芸術家、文化人が眠るヴィシェフラッド国民墓地の、その中でも特別なスラヴィーン霊廟にあります。
 ドイツ占領下で市民の集会は禁止されていましたが、ミュシャの葬儀はナチス・ドイツに対する抗議集会のようになり、ミュシャはチェコの人々の心の支えになりました。
 プラハ市はミュシャの自宅があったブベネチの道路にミュシャの名前をつけて記念しています。

20世紀後半の代表的指揮者、プラハの春音楽祭の創設者。ヤン・クベリークの長男。チェコが共産党支配になり国外に亡命。シカゴ、ミュンヘンを拠点に世界で活躍した。1990年、自由化後初めてのプラハの春音楽祭に42年ぶりに祖国に戻って『わが祖国』を指揮した。その時の名演奏CDとともにドキュメンタリービデオがある。ミュシャの子息イジー・ムハとも交友があった。

建築家。スラヴィーン霊廟の設計者。(棺に寄り添う『天才』の寓意像は彫刻家マンデル Josef Mander 1854-1920)
現在スメタナ博物館になっている、カレル橋のわきの旧市街給水塔もヴィールの設計。

建築家。プラハ・ヴァツラフ広場正面の国立博物館はシュルツが設計した建築。
国民劇場、芸術家の家をジーテク(Josef Žítek 1832-1909)と共作した。(写真は国立博物館)

彫刻家。記念碑的彫刻を数多く残している。プラハ旧市街広場の『ヤン・フス記念像』が有名。この像はフス処刑500年を記念して1915年に建立された。(写真は『ヤン・フス記念像』)

彫刻家。ヴァツラフ広場にある聖ヴァツラフ像がもっとも有名。チェコの歴史や伝説を語る記念碑的彫刻が各地にある。
ヴィシェフラッドの墓地に隣接するところにもリブシェ王女、シャールカなどチェコ史人物の彫刻作品がある。
(写真は『聖ヴァツラフ像』)

詩人。チェコ民衆の姿を暖かい詩情で表現した。プラハ城からカレル橋に至るネルーダ通りに彼の名がつけられている。
チリのノーベル賞作家パブロ・ネルーダは尊敬するネルーダの名前をペンネームにした。

作家。『おばあさん』、『十二の月たち』など、昔話やおとぎ話の形でチェコの心を民衆の言葉で描いた。散文のボヘミア文学創始者。

作曲家。日本では『モルダウ』がよく知られている。連作交響詩『わが祖国』でチェコ国民に歴史と向き合い方を示唆した。ミュシャ、イラーセクとともにチェコで最も大切な芸術家。プラハの春音楽祭はスメタナの命日5月12日に『わが祖国』をスメタナ・ホールで演奏して幕を開ける。

作曲家。交響曲『新世界』、『スラヴ舞曲』、『ユーモレスク』などが世界中で親しまれている。メロディ作曲の才能はブラームスがうらやんだほど。(シャロウン制作の墓碑彫刻)

作家。幅広い文筆活動が日本でも親しまれている。「ロボット」の造語で知られる。『長い長いお医者さんの話』や『ダーシェンカ』、『園芸家12ヶ月』、『山椒魚戦争』など、童話、随筆、紀行文がある。ブルノのギムナジウムでミュシャの後輩。お互いの晩年に短い間の交流があった。

ミュシャと同時代のチェコ画壇の中心画家。国民劇場ホワイエの『祖国』連作で知られる。1902年のロダン展にロダンとミュシャを招いた。(挿絵から)

パリでミュシャと交流のあったチェコの画家。国民劇場の壁画『パリスの審判』を描いた。(『春』から。切手)

グラフィック画家。ミュシャの葬儀では弔辞を読んだ。ミュシャ生誕100年記念の肖像切手をはじめ。切手の原画デザインを数多く手がけている。

作曲家、指揮者。『ヒヤシンス姫』を作曲した国民的音楽家。草創期のチェコフィルハーモニーに尽力した。 

女優。『ヒヤシンス姫』を演じ、ミュシャのポスターのモデルになった。チェコの国民的舞台女優でヨーロッパで最初の映画女優になった。

小説家、詩人。 ミュシャ最初の挿絵本『アダミテ』の作者ヤナーチェクのオペラ『ブロウチェク氏の月と15世紀への旅』原作者。
ヴルタヴァ(モルダウ)川の橋のひとつに彼の名がつけられている。

20世紀前半の伝説的な名ヴァイオリニスト。美しい音色と超絶的な技巧で世界を魅了したといわれる。作曲家でもある。アメリカでミュシャと交流があった。ラファエル・クベリークの父。

ラディスラフ・シャロウン
1870 - 1946

スヴァトプルク・チェフ
1846 - 1908

ミュシャの妻 マルシュカ
ミュシャの孫 ヤルミラ・プロツコヴァーさん
カプラロヴァー 生誕百 切手

 ミュシャの娘ヤロスラヴァは1909年にニューヨークで生まれました。『スラヴ叙事詩』制作の資金を得ようとミュシャがアメリカに拠点を移していた時期でした。ヤロスラヴァが誕生した年の暮れにようやく計画実現の目途がたち、翌1910年に一家はプラハの西にあるズビロフに移ります。
 父の仕事を間近に見ながら時に作品のモデルになり時に父の制作を子どもなりに手伝って育ちました。成長してヤロスラヴァが絵画修復の専門家になったのはそのような環境で育ったことが背景にあったのでしょう。第二次大戦中にナチスドイツの略奪から守るため急いで隠してダメージを受けてしまった『スラヴ叙事詩』を戦後になって修復する際、ヤロスラヴァは大きな役割を果たしました。
 ヤロスラヴァは1986年11月に亡くなりました。折しも1989年の「ミュシャ没後50年記念展」に日本で初めて『スラヴ叙事詩』を公開する契約を見届けるようにして眠りについたのです。彼女の生涯は『スラヴ叙事詩』とともにあったといえるでしょう。今は母のマルシュカと同じ墓で眠っています。

ミュシャの娘 ヤロスラヴァ
Jaroslava Muchová Syllabová
(1909-1986)
ミュシャの娘 ヤロスラヴァ 絵画修復家
ミュシャの家族
ヤロスラヴァ 5才
「ハーモニー」
チェヒア 「ハーモニー」から

『ハーモニー』 (1908年)土居君雄コレクション

「予言者 リブシェ」 マシェック
セドラチコヴァー
チェフ
ネドヴァル

ヴォジェナ・ニェムツォヴァー
1820 - 1862

ベドジフ・スメタナ
1824 - 1884

ヨゼフ・シュルツ
1840 - 1917

アントニーン・ヴィール
1846 - 1910

ヴィシェフラッド墓地 スラヴィーン霊廟
ミュシャの死を伝える新聞
1939年7月15日付
クリックで日本語訳
ヴィシェフラッド国民墓地

 ヴィシェフラッドはリブシェ伝説の地である。チェコ最初のプジェミスル王朝とプラハの栄光を示した予言者リブシェ伝説の城跡でチェコ国民の魂の故郷とされる。
 19世紀の民族主義の高まりとともに、枢機卿で詩人のシュトゥルツ
(Václav Svatopluk Štulc 1814-1887)の発案で、ヴィシェフラッドにチェコの民族墓地を定めた。ここにはミュシャをはじめチェコ国民にとって大切な芸術家たちが眠っており、日本人がよく知るドヴォジャーク (ドヴォルザーク)、スメタナ、チャペック兄弟の墓もヴィシェフラッドにある。

ポーズをとるヤロスラヴァ
(1914年)
カプラーロヴァー生誕100年記念切手(2015年)
ミュシャのひ孫
ミュシャの妻マルシュカ
イジー・ムハの娘ヤルミラ・プロツコヴァーさん
ミュシャの曾孫 ヤルミラさんの2人の娘さん
カテリーナさん(左)とバルボラさん(右)
前列左から ヤロスラヴァ、マルシュカ、イジー
後列 ミュシャ(1916年)

 「未来の希望」をチェコの人たちに語りかける『ハーモニー』を制作しているとき、ミュシャの妻マルシュカはミュシャの初めての子(ヤロスラヴァ)を宿していた。『ハーモニー』は、チェコの未来と同時に生まれてくるわが子の"未来の希望"でもあったのだ。

幼子を抱く"チェヒア"
『ハーモニー』から (部分 1908年)

『リブシェ』 (1917年)
プラハ国立美術館
『予言者 リブシェ』(1893年)
マシェック(Karel Vítězslav Mašek)
オルセ美術館

ヴォイチェフ・ヒナイス
1854 - 1925

マックス・シュヴァビンスキー
1873 - 1962

オスカー・ネドバル
1874 - 1930

アンドゥラ・セドラチコヴァー
1887 - 1967

ラファエル・クベリーク
(クーベリック)
1914 - 1996

ヤン・クベリーク
(クーベリック)
1880 - 1940

ミコラーシュ・アレシュ
1852 - 1913

カレル・チャペック
1890 - 1938

アントニーン・ドヴォジャーク
(ドヴォルザーク)
1841-1904

指揮者。アウシュビッツから奇跡的に生還してクベリーク亡命後のチェコ音楽界を支えた。彼の指揮ではすべての音楽が今その瞬間にそこで生まれていると感じさせる鮮烈な名演だった。1968年のプラハの春後のソ連侵攻のときアメリカ演奏旅行中だったため祖国に戻れないまま1973年にカナダで客死した。

ヨゼフ・ミスルベク
1848 - 1922

ヤン・ネルーダ
1834 - 1891

カレル・アンチェル
1908 - 1973

ミュシャの死を伝える記事

 ミュシャと同じ墓碑に名前が刻まれているのはヤン・クベリーク(クーベリック) とラファエル・クベリーク(クーベリック) 父子。父親でヴァイオリニストのヤンはミュシャと、指揮者のラファエルはミュシャの息子イジーと交友があった。

ミュシャの墓(左)があるヴィシェフラッド墓地スラヴィーン霊廟 (右)
スラヴィーン霊廟の『天才』像には「彼ら死すとも なお語る」という言葉が刻まれている。
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ミュシャの墓碑
『絵画』と『音楽』(『四芸術』のデッサン)切手のFDC(初日カバー)
イジー・ムハと土居君雄さん 
(「カメラのドイ」写真ギャラリーで開催したミュシャ展会場で)

『イジー・ムハ』
伝記表紙

ミュシャの息子 イジー・ムハJiří Mucha 1915-1991)

 チェコスロヴァキアはミュシャを記念する切手を、ミュシャ没後30年の1969年、命日の7月14日に4種発行しました。"プラハの春"と呼ばれるチェコ改革が、ソ連中心のワルシャワ機構軍侵攻によって圧殺された1968年8月からまもなく1年という時期です。
 武力侵攻の年、1968年にも ミュシャがデザインした『プラハ城切手』の50年を記念する切手をチェコ独立50年にあわせて発行しました。

イジー・ムハの墓
(ヴィシェフラッド墓地)

イジー・ムハの墓
イジー・ムハ 評伝 表紙

ミュシャ没後30年の1969年7月14日に発行した切手。左から、『四芸術』デッサンから『ダンス』、『絵画』、『音楽』と、『四つの宝石』から『ルビー』、『アメジスト』。

初日カバー消印
絵画修復家ヤロスラヴァ
(1953年)
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