『市民会館 Obecní dům』 (1912年 プラハ)
『Dr. ポリーフカの蔵書票』の下絵
別人の
「建築家ポリーフカ」と聞くと、プラハ市民会館の装飾デザインをミュシャに依頼した「ポリーフカ」を思い起こします。しかし蔵書票のヤロスラフ・ポリーフカ(1886-1960)は、プラハ市民会館建設にかかわったオズヴァルト・ポリーフカ(1859-1931)とは別人です。
ヤロスラフ・ポリーフカは構造設計を専門とする建築家です。「構造」というと計算だけをしているイメージですが、実際には建築デザイナーといったほうが近いでしょう。建築デザインは構造設計なくしては成り立たちません。合理的な構造による斬新な建築がポリーフカの特徴です。
ポリーフカはプラハ工科学校を卒業し、プラハ市民会館の建設当時はスイス連邦工科大学(チューリッヒ工科大学とも呼び、出身者には X線の発見者W.レントゲン、物理学者のA.アインシュタインや指揮者カルロス・クライバーらがいる)で学んでいました。
プラハ工科大学で学位を得て建築設計事務所をプラハに開き、数多くの優れた構造設計の仕事をしました。「構造設計」の性質上、名前が表に出ることは少ないですが、プラハ市内はじめチェコ国内、アメリカにはポリーフカが構造デザインにかかわった建築や橋梁がたくさんあります。1937年のパリ万博、1939年のニューヨーク世界博ではチェコスロヴァキア・パヴィリオンの構造設計デザインをして世界的な名声を得ました。
1939年、チェコスロヴァキアがナチスドイツに併合占領されるとポリーフカはアメリカに移住し、設計の仕事をしながらカリフォルニア大学バークレー校で教鞭をとりました。1946年からはアメリカの建築家フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright 1867-1959)と組んで、ニューヨークのグッゲンハイム美術館など鉄筋コンクリート造りのさまざまな名建築をアメリカ各地で建設しています。ライトとの協働はライトが亡くなる1959年まで続きました。
下宿の跡に
ミュシャは10代半ば頃、ブルノのギムナジウム(大学進学前の中等教育学校)に通っていました。変声期後は聖歌隊の寄宿舎を出て 街なかの下宿から通学します。ミュシャが下宿していた家は1920年代の地域開発で取り壊されましたが、1929年、その跡に新たに建ったのがポリーフカが設計した「パラッツ・ヤルタ(Palac Jalta)」です。外観もさることながらオフィス、住居スペースとブルノではじめての映画館が入る内部構造が斬新で、いまも「ヨーロッパ建築遺産」として大切にされています。
さらに、この建物には一時期YWCAが入っていました。ミュシャがアリツェ・マサリコヴァ(Alice Masaryková 1879-1966)の理念に賛同して『チェコスロヴァキアYWCA』のポスターを制作したYWCAのブルノ支部です。家族ぐるみの親しい仲だったミュシャとポリーフカの間でそんなことまで話題になっていたかどうかはわかりませんが不思議な縁です。