チェコ時代 へ

7月24日は ミュシャの誕生日です。

ミュシャ



ブルノから
 「歩く前から描いていた」といわれるミュシャですが、少年時代にはむしろ歌とヴァイオリン、音楽の才能が注目されていました。裕福な家庭ではなかったため、イヴァンチッツェの音楽教師の薦めで、ブルノで修道院聖歌隊の給費生となってギムナジウム
(大学進学前の中等教育学校)に進学することになりました。しかし、ブルノ修道院(聖母被昇天教会)に着いた時、一足違いで給費生の枠が満員になっていたため、かわりに聖ペテロ聖パウロ教会(ペトロフ)の聖歌隊給費生に推薦され、ギムナジウム(後輩に、作家のカレル・チャペック Karel Čapek 1890-1938がいる)に通いながら毎日聖歌隊で歌う生活を送りました。
 ブルノの数年間は、ミュシャを形成するあらゆる面で決定的な影響を与えています。「私が生涯愛したのは、絵画と教会と音楽」とミュシャ自身が語っているように、少年期に聖歌隊でポリフォニー音楽を学んだことは、作品を理解するうえでも、彼の感性や生き方を考えるにも大きな意味を持っています。
 ブルノでは、6才年上で修道院聖歌隊の指導助手を務めていたヤナーチェクとも知り合い、2人の交流は終生にわたりました。現在、ブルノ市内には、世界的な芸術家となった2人を記念して、ミュシャの名は"通り"に、ヤナーチェクは"広場"に、それぞれの名前がつけられています。
 ミュシャがいた頃の旧ブルノ修道院院長は、「メンデルの法則」で有名なメンデル
(Gregor Johann Mendel 1822-1884)でした。すでに"エンドウ豆の研究"は終えていて、修道院院長に専念していましたが、ともにブルノの中心的教会のペトロフと旧ブルノ修道院は関係が深く、一緒に活動することが多かったので、ヤナーチェクはもちろん、ミュシャもメンデル院長と挨拶を交わすほどのことはあったかもしれません。

やわらかい 「ムハ」
  アルフォンス・マリア・ミュシャ
(ムハ、 Alfons Maria Mucha, Alphonse Mucha)は、1860年7月24日(日本の年号では万延元年、江戸時代末期)に、オーストリア帝国領モラヴィア(現在はチェコ共和国)のイヴァンチッツェに生まれました。父親はオンジェイ・ムハ(Ondřej Mucha、Ondřejはアンドレアスのチェコ語形)、母はアマリエ(旧姓マラー)。ミュシャの祖先は、町ができた10世紀頃すでにイヴァンチッツェに住んでいたようです。
 ミュシャの兄弟姉妹は、アロイジア、アントニア、アウグスト、アンナ、アンジェラと、みんな"A"で始まる名前がついています。おそらく父オンジェイ
(アンドレアスのチェコ語名)に因むのでしょう。"マリア"というミドルネームは母アマリエの希望でつけられました。
 ムハ
(Mucha、Moucha) は、イヴァンチッツェでは普通にみられる古くからある名前です。チェコ人の姓には変わった意味のものがよくありますが mucha(moucha) も昆虫のハエ(蠅)を意味する名前です。チェコ語では、Mucha は 「ムハ」 と発音し、ドイツ語式の強い 「ムッハ」 ではなく、チェコ語の 「ムハ」 は柔らかく発音します。

旧ブルノ修道院 切手
スラヴ叙事詩「モラヴィア兄弟団学校」
「イヴァンチッツェの想い出」
「イヴァンチッツェの地方展」

ミュシャ記念館入口の銘板

ミュシャの生家
 2010年、誕生日前日の7月23日に、オーストリアがミュシャ生誕150年の記念切手を発行しました。
 "チェコの画家"ミュシャが生まれた1860年当時のイヴァンチッツェはオーストリア帝国領だったので、ミュシャの国籍は"オーストリア帝国"でした。オーストリアからするとミュシャは"オーストリア人"、当時の呼び方では"オーストリア帝国臣民"です。オーストリアが"自国の芸術家"ミュシャの生誕150年を祝って不思議はありません。切手だけでなく、ウィーンのベルヴェデーレ宮殿オーストリア絵画館で大規模なミュシャ展を2010年に開催しました。
 1918年にチェコスロヴァキア共和国が誕生しますが、1939年にはナチスドイツに解体併合されてドイツの"ベーメン・メーレン保護領"になり、ミュシャは"ドイツ保護領民"として亡くなりました。
 オーストリア人として生まれ、亡くなった時はドイツ人のミュシャが、"チェコ人"だったのは、58才から78才の間、第1次大戦終了の1918年10月から第2次大戦の直前1939年3月までの、わずか20年半でした。

 ミュシャが生まれたのは、歴史的建造物の旧市庁舎に棟続きにあった建物でしたが、生家は取り壊されて今はありません。
 イヴァンチッツェ地方裁判所の廷吏だった父オンジェイは、当時の市庁舎と棟続きの裁判所拘置所の一角を住居にしていて、そこでミュシャは生まれました。ブルノから戻ってウィーンに向かうまではミュシャも裁判所書記をしていました。
 生家はなくなりましたが、イヴァンチッツェ市は旧市庁舎を「アルフォンス・ムハ記念建築」として、2階にミュシャの展示室をおいています。また、ここからは少し離れていますが、現市庁舎の近くに、ミュシャを記念して"アルフォンス・ムヒー
(Alfons Muchy アルフォンス・ムハ通り)"と名づけた道があります。

イヴァンチッツェから
 イヴァンチッツェは、南モラヴィアの中心地ブルノから20kmほどにある小さな町です。15世紀にここを発祥とするモラヴィア兄弟団の教育活動は、チェコのみならず世界の歴史に重要な影響を与えています。聖書を理想とする清貧、非暴力、自由、平等、兵役拒否の信条に根ざした彼らの生活と活動は、カトリック教会の迫害で挫折し、17世紀以降は信徒の多くが国外に追放されました。 しかし、そのためにかえってモラヴィア兄弟団の信条は世界中に広まり、現代の欧米の民主主義・プロテスタント思想・良心の基盤になりました。
 1578年にイヴァンチッツェ近郊で翻訳・印刷された"クラリッツェ聖書"は、チェコ語文法の基礎になっています。
イヴァンチッツェの教育
 ミュシャは、イヴァンチッツェの豊かな教育環境のもとで育ち、音楽教師フォルベルガー、美術教師のゼレニーに才能を見出されて未来を方向づけられました。ミュシャの教育については、ブルノのギムナジウムと聖歌隊、プラハの美術学校の受験失敗とウィーンでの舞台美術工房、夜間講座、ミュンヘンの美術アカデミー、パリのアカデミー・コラロッシ、アカデミー・ジュリアンなどが知られていますが、母親の理解とともに故郷イヴァンチッツェの教育環境は、画家としてだけでなく、人間ミュシャの形成に非常に重要なはたらきをしています。
イヴァンチッツェの教会塔
 「スラヴ叙事詩」 の1点は、"クラリッツェ聖書"を印刷するモラヴィア兄弟団学校です。 この作品の場面はミュシャの生家からも近く、 背景にはイヴァンチッツェのシンボルの教会塔
(イヴァンチッツェ教区教会 聖母被昇天教会 鐘楼)も描かれ、城壁はすでになくなってますが地名に今も残っています。
 幼い頃から塔を見上げ、鐘の音を聞いて育ったミュシャは、生涯の転機のたびにイヴンチッツェの教会塔
(鐘楼)を心に浮かべ、作品に描いています。
 パラツキー広場をはさんで教会と向き合う旧市庁舎に、イヴァンチッツェ市のミュシ記念館があります。 少年ミュシャは、後世そこに自分の記念館ができるとはもちろん想像するはずもなく、塔を見上げてスケッチに熱中していたことでしょう。

パラッツ・ヤルタ ポリーフカ
 ブルノ時代の後半にミュシャが下宿していたブロックが再開発になり、跡地に建ったポリーフカの建築「パラッツ・ヤルタ」 Palac Jalta (1929年建設、1949年と2019年に改装)。ミュシャが下宿していた家は、左側の通りに面したところにあった。
 ミュシャはボリーフカの蔵書票をデザインしている。
パネンスカーの下宿
ポリーフカの蔵書票
聖歌隊を出たあとミュシャが下宿していた家(取り壊されて今はない)
聖ペテロ聖パウロ教会 外観
聖ペテロ聖パウロ教会 内陣
聖ペテロ聖パウロ教会 聖歌隊席
メンデル 切手
聖母被昇天教会(旧ブルノ修道院)切手
(2004年)
 「メンデルの法則」発表100年記念切手
(1965年)

ミュシャ生誕150年記念切手
(2010年 オーストリア発行)

ミュシャ











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ミュシャが聖歌隊で歌っていたブルノの聖ペテロ聖パウロ教会(通称ペトロフ)。左から、内陣、2階聖歌隊席(オルガンの前)、外観。

「建築家 Dr.ポリーフカの蔵書票」の作品解説は、
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「イヴァンチッツェの地方展」ポスターの作品解説は、
           「チェコ時代」 → 「イヴァンチッツェの地方展」 のサムネイルをクリックしてご覧ください。
スラヴ叙事詩 「イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校」の作品解説は、
           「チェコ時代」 → 「スラヴ叙事詩入口」 → 「イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校」 をクリックしてご覧ください。

生誕100年記念切手
(1960年)

イヴァンチッツェ 旧市庁舎 改装前
現在のイヴァンチッツェ旧市庁舎
ミュシャ記念館 銘板
イヴァンチッツェ 聖母被昇天教会
鐘楼のスケッチ ミュシャ18才
鐘楼から旧市庁舎を見る
ミュシャ生誕100年 旧市庁舎

スラヴ叙事詩 「イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校」

「イヴァンチッツェの想い出」
ポストカード1906年
イヴァンチッツェ市発行

イヴァンチッツェの地方展 ポスター
 1912年

「私の生まれた家

現在の聖母被昇天教会(イヴァンチッツェ教区教会)

18才のスケッチ 1878年
(イヴァンチッツェ・ミュシャ記念館蔵)

聖母被昇天教会鐘楼から旧市庁舎を見る
鐘楼の影が見える。

生誕100年記念碑
旧市庁舎 1960年

ミュシャ
建築家 Dr.ポリーフカの蔵書票
 イヴァンチッツェの人々はミュシャを自分たちの町の誇りと考えています。街を歩くと、店のウインドウなどちょっとしたところにミュシャの絵を飾っているのが見られます。上の写真はミュシャ記念館からも近いところにあるレストランです。壁に、日本で開催したミュシャ展のポスターを大切に飾っていました。これらのポスターは、ミュシャの没後50年記念展覧会を日本各地で開催したときのもので、展覧会開催資料としてイヴァンチッツェ市に提供したものの中からこのように飾ってくれているものです。

イヴァンチッツェ市 旧市庁舎 (左 改装前、15世紀の建築 右 現在) ミュシャ記念館が2階にある。