7月24日は ミュシャの誕生日です。
やわらかい 「ムハ」
アルフォンス・マリア・ミュシャ (ムハ、 Alfons Maria Mucha, Alphonse Mucha)は1860年7月24日(日本の年号では万延元年、江戸時代末期)に、オーストリア帝国領モラヴィア(現在はチェコ共和国)のイヴァンチッツェに生まれました。父親はオンジェイ・ムハ(Ondřej Mucha、「Ondřej」はアンドレアスのチェコ語形)、母はアマリエ(旧姓マラー)。ミュシャの祖先は町ができた10世紀頃すでにイヴァンチッツェに住んでいたようです。
ミュシャの兄弟姉妹はアロイジア、アントニア、アウグスト、アンナ、アンジェラとみんな「A」で始まる名前がついています。おそらく父オンジェイ(アンドレアスのチェコ語名)に因むのでしょう。「マリア」というミドルネームは母アマリエの希望でつけられました。
「ムハ(Mucha または Moucha)」は、イヴァンチッツェでは普通にみられる古くからある名前です。チェコ人の姓には変わった意味のものがよくありますが mucha(moucha) も昆虫のハエ(蠅)を意味する名前です。チェコ語では Mucha は 「ムハ」 と発音し、ドイツ語式の強い 「ムッハ」 ではありません。チェコ語の 「ムハ」 は柔らかく発音します。
イヴァンチッツェ市 旧市庁舎 (左 改装前、15世紀の建築 右 現在) ミュシャ記念館が2階にある。
イヴァンチッツェから
イヴァンチッツェは、南モラヴィアの中心地ブルノから20kmほどの小さな町です。15世紀にここを発祥とするモラヴィア兄弟団の教育活動は、チェコのみならず世界の歴史に重要な影響を与えています。聖書を理想とする清貧、非暴力、自由、平等、兵役拒否の信条に根ざした彼らの生活と活動は、カトリック教会の迫害で挫折し17世紀以降は信徒の多くが国外に追放されました。
しかしそのためにかえってモラヴィア兄弟団の信条は世界中に広まり、現代欧米の民主主義、プロテスタント思想、良心の基盤になりました。
1578年にイヴァンチッツェ近郊で翻訳・印刷された 『クラリッツェ聖書』 は、もっとも美しいチェコ文章語とされチェコ語文法の基礎になっています。
イヴァンチッツェの教育
ミュシャはイヴァンチッツェの豊かな教育環境のもとで育ち、音楽教師フォルベルガー、美術教師のゼレニーに才能を見出されて未来を方向づけられました。ミュシャの教育についてはブルノのギムナジウムと聖歌隊、プラハの美術学校の受験失敗とウィーンでの舞台美術工房、夜間講座、ミュンヘンの美術アカデミー、パリのアカデミー・コラロッシ、アカデミー・ジュリアンなどが知られていますが、母親の理解とともに故郷イヴァンチッツェの教育環境は、画家としてだけでなく人間ミュシャの形成に非常に重要なはたらきをしています。
イヴァンチッツェの教会塔
『スラヴ叙事詩』 の1点は 『クラリッツェ聖書を印刷するモラヴィア兄弟団学校』 です。 この作品の場面はミュシャの生家からも近く、 背景にはイヴァンチッツェのシンボルの教会塔(イヴァンチッツェ教区教会 聖母被昇天教会 鐘楼) も描かれ、城壁はすでになくなってますが地名に今も残っています。
幼い頃から塔を見上げ鐘の音を聞いて育ったミュシャは、生涯の転機のたびにイヴンチッツェの教会塔(鐘楼) を心に浮かべ作品に描いています。
パラツキー広場をはさんで教会と向き合う旧市庁舎にイヴァンチッツェ市のミュシ記念館があります。 少年ミュシャは後世そこに自分の記念館ができるとはもちろん想像するはずもなく塔を見上げてスケッチに熱中していたことでしょう。
18才のスケッチ 1878年
(イヴァンチッツェ・ミュシャ記念館蔵)
聖母被昇天教会鐘楼から旧市庁舎を見る
鐘楼の影が見える。
現在の聖母被昇天教会(イヴァンチッツェ教区教会)
生誕100年記念碑
旧市庁舎 1960年
ミュシャ記念館入口の銘板
スラヴ叙事詩 『イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校』
『イヴァンチッツェの地方展』 ポスター
1912年
生誕100年記念切手
(1960年)
ミュシャが聖歌隊で歌っていたブルノの「聖ペテロ聖パウロ教会 (通称ペトロフ)」。左から、内陣、2階聖歌隊席(オルガンの前)、大聖堂外観
ミュシャが生まれたのは歴史的建造物の旧市庁舎に棟続きにあった建物でしたが、生家は取り壊されて今はありません。
イヴァンチッツェ地方裁判所廷吏だった父オンジェイは当時の市庁舎と棟続きの裁判所拘置所の一角を住居にしていて、そこでミュシャは生まれました。ブルノから戻ってウィーンに向かうまではミュシャも裁判所書記をしていました。
生家はなくなりましたが、イヴァンチッツェ市は旧市庁舎を 「アルフォンス・ムハ記念建築」 とし、2階にミュシャの展示室があります (社会主義時代は絵画学校だった。) 。またここからは少し離れていますが、ミュシャを記念して名づけた 「アルフォンス・ムハ通り(Alfons Muchy )」 が現市庁舎の近くにあります。
ミュシャ生誕150年記念切手
(2010年 オーストリア発行)
ブルノから
「歩く前から描いていた」 といわれるミュシャですが、少年時代にはむしろ歌とヴァイオリン、音楽の才能で注目されていました。裕福な家庭でなく兄弟が多かったためイヴァンチッツェの音楽教師の薦めで、ブルノで修道院聖歌隊の給費生となってギムナジウム(大学進学前の中等教育学校) に進学することになりました。しかし、ブルノ修道院 (聖母被昇天教会、ヤナーチェク作曲『シンフォニエッタ』 第3楽章の 『ブルノ王妃の修道院』) に着いた時、一足違いで給費生の枠が満員になっていたため、かわりに聖ペテロ聖パウロ教会 (ペトロフ) の聖歌隊給費生に推薦され、ギムナジウム (後輩に、作家のカレル・チャペック Karel Čapek 1890-1938がいる) に通いながら聖歌隊で毎日歌う生活を送りました。
ブルノの数年間は必ずしも充実していたとはいえませんが、ミュシャを形成するあらゆる面で決定的な影響を与えています。「私が生涯愛したのは絵画と教会と音楽」 とミュシャ自身が語っているように、少年期に聖歌隊で教会音楽、とくにポリフォニーを学んだことは、ミュシャ芸術を理解するうえでも彼の感性や生き方を考えるにも大きな意味を持っています。
ブルノでは6才年上で修道院聖歌隊の指導助手を務めていたヤナーチェク (作曲家 Leoš Janáček1854-1928) とも知り合い、2人の交友は終生にわたりました。現在、ブルノ市内には世界的な芸術家となった2人を記念してミュシャの名は 「通り」 に、ヤナーチェクは 「広場」、「劇場」、「音楽学校」 に名前がつけられています。
ミュシャがいた頃の旧ブルノ修道院院長は、「メンデルの法則」 で有名なメンデル(Gregor Johann Mendel 1822-1884) でした。すでに 「エンドウ豆の研究」 は終えていて修道院院長に専念していましたが、ともにブルノの中心的教会のペトロフと旧ブルノ修道院 (聖母被昇天教会) は関係が深く、一緒に活動することが多かったのでヤナーチェクはもちろん、ミュシャもメンデル院長と挨拶を交わすほどのことはあったかもしれません。