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ミュシャ略年譜
1860(万延 1)

7月24日聖ヤコブの日、アルフォンス・マリア・ムハ Alfons Maria Mucha (ミュシャは Mucha のフランス語読み) 誕生。生地のイヴァンチッツェは現在はチェコ共和国南モラヴィア地方だが当時はオーストリア帝国領だった。

   幼い時から絵を描くのが好きで、7才ころ姉や母に連れられて祭りの見物に行っても彫刻や絵を見ていた。
1871(明治 4)

音楽教師の薦めでブルノの中学校スロヴァンスケ・ギムナジウムに通う(一説では1872年10月入学)。聖ペテロ・バウロ教会の聖歌隊員に推薦されそこで後の作曲家レオシュ・ヤナーチェクと知り合う。

1873(明治 6)

夏休みを友人の故郷ウスチー・ナド・オルリツィで過ごしそこの合唱団のために聖歌集の表紙を描く。

1875(明治 8) 変声期のため聖歌隊を続けることができなくなり寄宿舎を出る。故郷のイヴァンチッツェに戻る。書記になってデッサンに励む。
1877(明治10)

出席日数不足のため中学を除籍。故郷にではなくウスティ・ナド・オルリツィに行く。教会のフレスコ画に感動したことやパブで地元の人たちの肖像画を描いていて画家になろうと決心
イヴァンチッツェに戻り、デッサンの訓練を受けるとともに裁判所の書記の職を得る。
演劇に関心を持ち舞台装置を描き役者兼演出家として活動する。

 1878(明治11) プラハの美術アカデミーに入学を希望するが「才能がない」との理由で不許可。
裁判記録にスケッチを描いたことが問題になり解雇される。
1879(明治12)

広告に応募してウィーンに行き、舞台美術の工房で働く。 夜はデッサン教室に通う。チェコ民謡挿絵のスケッチを描く。

1881(明治14)

12月10日、ウィーンのリング劇場焼失。 工房はミュシャを含むスタッフの一部を解雇した。

1882(明治15)

ウィーンを去ってミクロフで土地の名士たちの肖像を描いて生計を立てる。

1883(明治16)

ミクロフの領主クーエン・ベラシ伯爵に雇われ、エマホフ城の食堂と図書室の絵画を修復する。 伯爵の弟がミュシャの最初のパトロンになる。

1884(明治17)

クーエン伯爵の援助でミュンヘンの美術アカデミーに留学。

1885(明治18)

ミュンヘンの美術学校に入学。チェコ人学生グループ"シュクレータ"に入り、翌年会長になる。

1887(明治20)

パリに出る。

1888(明治21)

アカデミー・ジュリアンに入る。ジャンポール・ローランスの指導を受ける。。

1889(明治22)

アカデミー・コラロッシに移る。
年末、伯爵の援助が突然打ち切られる。

1890(明治23)

フランスの雑誌に初めてミュシャの挿絵が登場。

1891(明治24)

ポール・ゴーガンと出会う。

1892(明治25)

『ドイツの歴史の諸場面とエピソード』の挿絵の依頼を受ける。

1894(明治27)

サロン・デ・ザルティスト・フランセに『ドイツの歴史の諸場面とエピソード』の挿絵の原画4点を出品、優秀賞牌を受ける。
年末、『ジスモンダ』に主演するサラベルナールのために最初のポスターを制作。

1895(明治28)

1月1日から『ジスモンダ』のポスターがパリの街に貼りだされ。その後6年間サラ・ベルナールと契約を結ぶ。
シャンブノワとの仕事がはじまる。

1896(明治29)

最初の装飾パネル〈四季〉を制作。

1897(明治30)

2月、最初のミュシャ個展が開催さる。 カタログ収録作品数107点。
6月、サロン・デ・サンで2回目の個展開催。カタログ収録作品数448点。個展期間中にあわせて『ラ・プリュム』誌はミュシャ特集号を刊行。
『トリポリの姫君イルゼ』出版、134点の挿絵を担当。

1898(明治31)

『ココリコ』誌よるとミュシャはパサージュ・スタニスラスで「紳士淑女絵画教室」を開講する。
バルカン諸国を旅行。 「スラヴ叙事詩」の最初の構想を持つ。

1899(明治32) 1900年パリ万博に向けて、博覧会の公式カタログの表紙、ボスニア=ヘルツェゴビナ館の装飾、オーストリア=ハンガリー帝国のポスターなどの注文を受ける。
1900(明治33)

サラ・ベルナールとの契約終了
パリ万国博覧会ボスニア=ヘルツェゴヴィナ館の装飾で銀賞を受ける。
フーケ宝飾店のためのデザインを始める。

1901(明治34)

パリのロワイヤル街にフーケ宝飾店が開店し、内装外装、展示家具などをデザインする
レジオン・ド・ヌール勲章を授与される。 チェコ科学芸術アカデミーの会員に選ばれる。

1902(明治35)

チェコの芸術家協会「マーネス」がプラハで大ロダン展を開催。 ミュシャは友人のオーギュスト・ロダンを伴いプラハとモラヴィアを訪ねる。 ロダンはモラヴィアの民俗芸能に驚嘆する。
『装飾資料集』刊行。

1903(明治36)

バリで未来の妻マルシュカ・ヒティロヴァに会う。 彼女は一時ミュシャの生徒だった。

1904(明治37)

「クオ・ヴァディス」完成。
アメリカに招かれる。 祖国のための制作に専念する資金を得るため、上流社会の肖像画を描こうとする。
4月3日、『ニューヨーク・デイリーニューズ』紙がミュシャ特集号を出し、ミュシャは「友情」を発表する。

1905(明治38)

『装飾人物集』刊行。
イラーセクの小説「すべてに抗して」を読みチェコの歴史や偉大さを絵画で表現する決心をする。
ニューヨークでチェコの名ヴァイオリニスト、ヤン・クーベリックと懇意になる。

1906(明治39)

マルシュカ・ヒティロヴァとプラハで結婚。 ハネムーンをボヘミア南西部で過ごす。 そこで〈真福八端〉を描き、妻マルシュカが絵の装飾を描く。
秋、妻と共にアメリカに出発。 シカゴの美術研究所で講義を始める。
ニューヨークの女子応用美術学校の教授に任命される。

1907(明治40)

ルーマニア皇帝より最高勲爵士授与

1908(明治41)

「ハーモニー」など、ニューヨークのドイツ劇場のための装飾画を制作。
ボストン交響楽団のスメタナの連作交響詩「わが祖国」を聞き、スラヴの連帯を促進し芸術を通してスラヴ諸国の文化を広めるために生涯を捧げる決心をする。

1909(明治42)

娘ヤロスラヴァがニューヨークで生まれる。
クリスマス・イヴにチャールズ・R・クレインがミュシャの「スラヴ叙事詩」の計画に賛同し、財政援助に同意する。

1910(明治43)

西ボヘミアのズビロフ城の一翼をアトリエと住まいとして借り、そこで18年間「スラヴ叙事詩」の制作を続ける。

1911(明治44)

プラハ市民会館の壁画制作をはじめる。
アドリア海岸で「スラヴ叙事詩」の最初の油彩スケッチを描く。

1912(明治45) 「スラヴ叙事詩」の最初の3点が完成し、プラハ市に贈る。
1915(大正 6)

息子イジーが生まれる

1918(大正 7)

チェコスロヴァキア共和国の新しい国章、郵便切手、紙幣をほとんど無償でデザインする。

1919(大正 8)

5コルナ、100コルナ、120コルナ紙幣のデザインをする。
「スラブ叙事詩」の最初の11点をプラハ、クレメンティナムで展示。

1920(大正 9)

アメリカヘ向けて出発

1921(大正10)

「スラヴ叙事詩」5点をニューヨーク・ブルックリン美術館およびシカゴ美術館で展示、成功を収める。

1928(昭和 3)

10月、完成した「スラヴ叙事詩」20点をチェコ国民およびプラハ市に贈呈する用意があると発表。 これらの作品を産業博覧会の新会館で展示する。

1931(昭和 6)

プラハ、聖ヴィタ大聖堂大司教礼拝堂のステンドグラスのデザイン、制作をする

1936(昭和11)

フランチシェック・クプカと共にパリのジュドポム美術館で作品展示。 ミュシャのカタログ収録作品数は139点。

1938(昭和13)

肺炎にかかり、健康を害す。

1939(昭和14) ナチス・ドイツ、ボヘミアとモラヴィアを併合。 チェコスロヴァキア共和国は解体させられ、3月15日ドイツ軍がプラハに入場。ミュシャは一時投獄される。
7月14日、プラハでミュシャ死去。
78才。
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