ロシアの農奴制廃止 (1861年) 労働者の自由は国家の基盤
1913年のモスクワ取材でミュシャが撮影した写真(左)と
『ロシア農奴制廃止』 デッサン(右)
"希望"の改革
クリミア戦争(1854-1857)の敗戦で後進性を露呈したロシアは内政の抜本的な改革を迫られます。皇帝アレクサンドル2世(1818-1881)はロシアの産業発展を目指して1861年に農奴制の廃止を決めました。ミュシャが生まれて間もないころです。
ロシアは大国であっても後進国です。チェコではすでに1781年に農奴制は廃止されていました。ただ、当時オーストリアの支配下にあったチェコだけでなくスラヴ人の住む地域で独立国はロシアだけだったのでロシアの改革はミュシャたちスラヴの人々には希望の改革と映ったのです。
画面は1861年2月19日、農奴解放の詔勅が読み上げられた直後のクレムリンとヴァシリー教会前の様子です。
アレクサンドル2世は農奴解放令のほかにも教育改革、司法改革、地方行政改革、軍制改革を行います。しかし騎馬民族あるいは強権専制政治への隷属が長く続いたロシアは個人の自立よりも 強い権力のもとでの安定を望む傾向が歴史的にあり、専制支配を残しての農奴解放は土地を領主から買いとることができないまま工業化、近代化してかえって国民は取り残され矛盾と格差が広がる結果になりました。むしろ革命運動が活発化して1881年にアレクサンドル2世は暗殺されます。
色を変えたのは
『ロシアの農奴制廃止』をテーマに含めたのは『スラヴ叙事詩』のパトロン、親スラヴ親ロシアのチャールズクレインの希望でした。1913年、ミュシャはこの"改革"を描くための調査取材でモスクワを訪れました。しかしロシア庶民の生活困窮は50年前と変わらずミュシャが見たロシアの現実は悲惨なものでした。当初はスラヴ人最大の国家ロシアの栄光を祝典として描くつもりでしたがこの旅行から帰って画面の色調を変更しました。
"ロシア"の歴史
当時の常識からミュシャは、ロシアは唯一独立を保っているスラヴ人の強大国と考えていました。ソヴィエト連邦時代を経た今日もそのような見方が大勢を占めています。しかし詳しく見ていくと"常識"とはやや異なるロシアの姿が浮かび上がってきます。
「ロシア」とは9世紀から13世紀に存在した「キエフ大公国(キエフ・ルーシ)」の"ルーシ"をギリシア語読みした名前です。"スラヴの故郷"とされるキエフ・ルーシは、ウクライナからベラルーシの地域に住んでいたスラヴ人たちが6世紀ころに襲ってきたモンゴル系騎馬民族アヴァールに征服されて大勢がチェコ、ポーランド、バルカン半島方面に連れ去られた後、"故郷"に残っていた人々がさらに北西のスウェーデンからやってきたゲルマン系ノルマン人(バイキングの流れ)に支配されてできた国です。国民の多数はスラヴ人ですが支配層はノルマン人でした。ですから初期の支配者はゲルマン系の名前です。そもそも"ルーシ"という言葉は、ノルマン人が自分たちのことを指す呼び名だったようです。
キエフ・ルーシはビザンツ帝国(東ローマ帝国)との交易で栄え、国内でスラヴ人の力も強くなりますが1240年のモンゴル軍侵攻で崩壊し、今度は"タタールのくびき"と呼ぶ厳しいモンゴル支配の時代が続きます。
キエフ・ルーシ諸侯の一人モスクワ公はモンゴルの手先として朝貢のまとめ役をしながら蓄財して次第に強力になり、モスクワ大公国として独立し皇帝を名乗るようになります。皇帝の2代目がイヴァン雷帝(イヴァン3世)で領土を拡大して集権化、専制化を進めます。大貴族と農奴制による専制政治はピョートル大帝のロマノフ朝にも引き継がれ、ロシア革命で共産主義化した後もスターリン、ブレジネフの強権専制政治は続きます。(革命直後の一時期、農民は自由に農産物を販売できたがスターリン以降は禁止され、国内パスポート制によって農民の移動が制限されて農奴制時代と同様になった。)。ソヴィエト連邦崩壊後のロシア連邦でも、被害意識と表裏の侵略性と残虐性、自律よりも強権のもとでの安定を望み、大国意識に根ざして政治への関心が薄い"寄らば大樹"の国民性は、専制ロシア550年の隷属、農奴の歴史に培われた、コンプレックスの裏返しによるものでしょう。
ロシアは広大な国土(日本の45倍)とスラヴ人グループで最大人口(約1億4000万人)をもつ強国であるため、"スラヴの代表"、"スラヴの中心"と見られがちですが、歩んできた歴史、国民性など他のスラヴの国とは異なる面が多く、スラヴの中でも特異な国と考えるほうがわかりやすいかもしれません。