イヴァンチッツェ市 旧市庁舎 (左 改装前、15世紀の建築 右 現在) ミュシャ記念館が2階にある。
教会塔と向き合って建つ旧市庁舎に棟続きの建物でミュシャは生まれましたが、生家は取り壊されて今はありません。
イヴァンチッツェ地方裁判所の廷吏だった父オンジェイは当時の市庁舎と棟続きの裁判所拘置所の一角を住居にしていて、ミュシャはそこで生まれ、ブルノから戻ってウィーンに向かうまでの一時期、ミュシャも裁判所書記をしていました。
生家はなくなりましたが、イヴァンチッツェ市は15世紀歴史的建造物の旧市庁舎を改装して「アルフォンス・ムハ記念建築」とし、2階にミュシャの展示室をおいています。また、ここから少し離れたところ、現市庁舎の近くに「アルフォンス・ムハ通り(Alfons Muchy )」と、ミュシャを記念して名づけた道があります。
聖母被昇天教会鐘楼から旧市庁舎を見る
鐘楼の影が見える。
ミュシャ記念館入口の銘板
スラヴ叙事詩
「イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校」 より
16世紀当時の塔の姿を描いている。
『聖母被昇天教会の塔』 1878年
18才のミュシャが描いたスケッチ
ミュシャ記念館
塔の古い部分は13世紀前半までに建てられた防衛のための望楼でロマネスク建築の名残がみられる。14世紀はじめころからフス戦争混乱の影響も受けながら改装を重ねて現在の教会堂の姿に整えてきた。。
生誕100年記念碑(1960年)
旧市庁舎が記念館になる以前に掲げられていた。
イヴァンチッツェから
イヴァンチッツェは南モラヴィアの中心地ブルノから20kmほどにある小さな町です。15世紀にここを発祥とするモラヴィア兄弟団の教育活動はチェコのみならず世界の歴史に重要な影響を与えました。聖書を理想とする清貧、非暴力、自由、平等、兵役拒否の信条に根ざした彼らの生活と活動はカトリック教会の迫害で挫折し17世紀以降は信徒の多くが国外に追放されました。
しかし、そのためにかえってモラヴィア兄弟団の信条は世界中に広まり現代の欧米の民主主義・プロテスタント思想・良心の基盤になりました。
1578年にイヴァンチッツェ近郊で翻訳・印刷された「クラリッツェ聖書」はチェコ語文法の基礎になっています。
イヴァンチッツェの教育
ミュシャはイヴァンチッツェの豊かな教育環境のもとで育ち、音楽教師フォルベルガー、美術教師のゼレニーに才能を見出されて未来を方向づけられました。ミュシャの教育についてはブルノのギムナジウムと聖歌隊、プラハの美術学校の受験失敗とウィーンでの舞台美術工房、夜間講座、ミュンヘンの美術アカデミー、パリのアカデミー・コラロッシ、アカデミー・ジュリアンなどが知られていますが、母親の理解とともに故郷イヴァンチッツェの教育環境は、画家としてだけでなく人間ミュシャの形成に非常に重要なはたらきをしています。
『イヴァンチッツェの思い出』 (ポストカード) 1903年
『イヴァンチッツェの地方展』 (ポスター) 1913年
現在のイヴァンチッツェ教会塔