生まれた町から
 ミュシャはここからすぐ近くで生まれ育ち、少年のころからよく知っていた場所です。
 農耕、手工業を中心に質実な信仰生活を実践するチェコ兄弟団
(友愛統一教団 )は、ペトル ヘルチツキー(1390-1460)の教えを受けて1467年に北東ボヘミアで誕生し、16世紀はじめにはボヘミア、モラヴィアに信徒10万、教会数200を数える組織に成長しました。
 聖書を理想として清貧生活を実践するチェコ兄弟団は初期には教育を否定していましたが、後に人文主義を受け入れて教育水準の高い宗教教団になりました。モラヴィア南部のイヴァンチッツェ
(ミュシャの生地)のモラヴィア兄弟団学校は教育レベルが最も高いことで広く知られていました。とくに『チェコ語文法』の著者ヤン・ブラホスラフによる聖書のチェコ語訳は、最も美しいチェコ文章語、チェコ文学の精華といわれ、イヴァンチッツェはチェコの人々から優れた教育の町と今も位置づけられています。
 モラヴィア兄弟団学校の新約旧約聖書は、1578年にイヴァンチッツェ近くのクラリッツェに印刷所が移ったため、『クラリッツェ聖書』と呼ばれてつい最近の20世紀末まで使われ
(1613年刊行の3版)、文章体チェコ語の基礎になりました。宗教改革者ルター訳の聖書がドイツ語表記や文法のもとになっているだけでなく、「国家」と「ドイツ民族の意識」をゲルマンの人々の心にはぐくむもとになったことと似ています
世界へ
 1620年のビーラー・ホラー
(チェコ語で「白い山」の意味。プラハ郊外にある)の戦いで穏健フス教徒(ウトラキスト聖杯派)のチェコ貴族たちはボヘミア支配を狙うハプスブルク・オーストリアに抵抗して殲滅処刑されました。これ以降1918年までチェコの暗黒時代が続きます。1627年の「非カトリック教徒追放令」によりプロテスタントのフス派チェコ兄弟団は弾圧され、信徒の多くは国外追放になってチェコ国内の兄弟団は壊滅させられます。
  しかし国外に退去させられて、信仰中心の清貧生活、友愛主義などチェコ兄弟団の信条は世界に広まり、キリスト教プロテスタント信仰に影響を与え、民主主義思想の根幹として現代にも生きています。

イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校    クラリッツェ聖書の発祥地

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 背景に見える城壁は取り壊されて今はありませんが聖母被昇天教会の塔は現在もイヴァンチッツェのシンボルです。尖塔の形が現在とは違っているためミュシャはモラヴィア兄弟団学校があった16世紀当時の姿に復元して描いています。
 右側には印刷所があり、刷りあがった聖書を見るために領主で学校の有力な支援者ジェロティーンのカレルが彼の妻とともに訪れたところを描いています。
 一方、左側で聖書に手を置く盲目の老人とこちらを見据える若者は、尖塔を巡るツバメとともにやがて訪れる苛烈な離散の時代を暗示しているようです。
 画面に描かれている場所はミュシャの生家から歩いてほんの数分の所にあり、地名に残っているだけでなく城壁の痕跡は今もわかります。また、この近くにはミュシャの名前をつけた道路があります。

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 テンペラと油彩   1914  610×810 cm

スラヴ叙事詩

イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校

イヴァンチッツェ教会塔