スラヴ叙事詩

テンペラと油彩  1914年  610×810 cm

ロシアの農奴制廃止 (1861  労働者の自由は国家の基盤

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モスクワ取材旅行の写真

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ロシア
 当時の常識から、ミュシャはロシアを"唯一独立を保っているスラヴ人の強大国"と考えていました。ソヴィエト連邦時代を経た今日もそのような見方が大勢を占めています。しかし詳しく見ると"常識"とはやや異なるロシアの姿が浮かび上がってきます。
 「ロシア」とは、9世紀から13世紀に存在した「キエフ・ルーシ
(キエフ大公国)」の"ルーシ"をギリシア語読みしたものです。
 東スラヴで"スラヴの故郷"とされるキエフ・ルーシは、ウクライナからベラルーシの地域に住んでいたスラヴ人たちが、6世紀ころモンゴル系騎馬民族アヴァールに征服されて大勢がチェコ、ポーランド、バルカン半島方面に連れ去られた後、"故郷"に残っていた人々がさらに北西のスウェーデンからやってきたゲルマン系ノルマン人
(ヴァリャーグ族などバイキングの流れ)に支配されてできた国です。国民の多数はスラヴ人ですが支配層はノルマン人でした。ですから初期の支配者はゲルマン系の名前です。そもそも"ルーシ"という言葉は、ノルマン人が自分たちのことを指す呼び名だったようです。
 キエフ・ルーシはビザンツ帝国
(東ローマ帝国)との交易で栄え、スラヴ人の力が強くなって徐々にスラヴ化しますが、1240年のモンゴル軍侵攻で崩壊し今度は"タタールのくびき"と呼ぶ厳しいモンゴル支配の時代が続きます。
 キエフ・ルーシ諸侯の一人モスクワ公はモンゴルの手先として朝貢のまとめ役をしながら蓄財して次第に強力になり、モスクワ大公国として独立し皇帝
(ツァーリ 正確には大公の上、皇帝の下)を名乗るようになります。皇帝の2人目がイヴァン雷帝(イヴァン4世)で、領土を拡大して集権化、専制化を進めます。大貴族と農奴制による専制政治はピョートル大帝のロマノフ朝にも引き継がれ、ロシア革命で共産主義化した後もスターリン、ブレジネフの強権専制政治は続きます(革命直後の一時期、農民は自由に農産物を販売できたがスターリン以降は禁止され、国内パスポート制によって農民の移動が制限されて農奴制時代と同様になった。)。ソヴィエト連邦崩壊後のロシア連邦でも、被害意識と表裏の侵略性と残虐性、民主的自律よりも強権のもとでの安定を望み、大国意識から 政治への関心が薄く、"寄らば大樹"の国民性は、専制ロシア550年の隷属、農奴の歴史に培われたものでしょう。
 ロシアは広大な国土
(日本の45倍ほど)とスラヴ人グループでは最大人口(約1億4000万人)の強国で、偉大な音楽・文学・演劇・絵画を生んだ"スラヴの代表"、"スラヴの中心"と見られがちですが、専制強権の暴虐を是とする1000年にわたる歴史、国民性は他のスラヴ諸国とは異質であり、スラヴの中でも特異な国と考えるほうがわかりやすいでしょう。

1913年のモスクワ取材でミュシャが撮影した写真(左)と
『ロシア農奴制廃止』 デッサン(右)

希望の改革
 クリミア戦争
(1853-1857)の敗戦で後進性を露呈したロシアは内政の抜本的な改革を迫られます。皇帝アレクサンドル2世(1818-1881)ロシアの産業発展を目指して1861年に農奴制の廃止を決めました。ミュシャが生まれて間もないころです。("農奴"とは、国や時代によって違いはあるが、限られた私有財産は持てても住地から離れる自由がなく土地所有貴族に縛られた奴隷。1946年まであった日本の小作農がこれに近い。)
 ロシアは大国であっても後進国です。チェコではすでに1781年に農奴制は廃止されていました。ただ、当時オーストリアの支配下にあったチェコをはじめスラヴ人の住む地域で独立国はロシアだけだったので、ロシアの改革はミュシャたちスラヴの人々には"希望の改革"と映ったのです。
 画面は1861年2月19日、農奴解放の詔勅が読み上げられた直後のクレムリンとヴァシリー教会前の様子です。
 アレクサンドル2世は農奴解放令のほかにも教育改革、司法改革、地方行政改革、軍制改革を行います。しかし、モンゴル支配また強権専制政治に永く隷属する歴史を持つロシア国民には、個人の自立や民主的な社会の変革よりも 強権支配のもとで安定を望む傾向があり、さらに専制支配を残しての農奴解放は農民が領主から土地を買いとることができないまま工業化、近代化に進み、かえって国民は取り残され矛盾と格差が広がる結果になりました。むしろ革命運動が頻発して1881年にアレクサンドル2世は暗殺されます。
色を変えたのは
 『ロシアの農奴制廃止』をテーマに含めたのは『スラヴ叙事詩』のパトロン、親スラヴ親ロシアのチャールズ・クレインの希望でした。1913年、ミュシャはこの"改革"を描くための調査取材でモスクワを訪れました。しかしロシア庶民の生活困窮は50年前と変わらず、ミュシャが見たロシアの現実は悲惨なものでした。当初はスラヴ人最大の国家ロシアの栄光を祝典として描くつもりでしたが、この旅行から帰って画面の色調を変更しました。 
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