クジージュキの集会  (1419)  ― 言葉の魔力 ―
テンペラと油彩  1916年  620cm×405cm

スラヴ叙事詩

死と希望と
 『クジージュキの集会』は『スラヴ叙事詩』の中心をなす「言葉の魔力三部作」
(『クロムニェジージュのヤン・ミリチ』、『ベツレヘム教会で説教するヤン・フス』、『クジージュキの集会』)というだけでなく『スラヴ叙事詩』全体の要となる重要な作品です。
 ヤン・フス
(1369頃-1415)が1415年に処刑されてボヘミア(チェコ)では混乱が続いていましたが、1419年9月30日にクジージュキで開かれた集会以降、信仰生活を求める教会改革運動が武器を持って立ち上がる全面的な戦争へ転換することになります。
 フス派戦争はチェコが主権を失い20世紀にいたるまで外国の支配を受け続けるという悲惨をもたらしました。その混乱の歴史の中でチェコの人たちは現代のヨーロッパと世界につながる数々の思想や技術が生み出しました。
白と赤と
 ミュシャはこの『クジージュキの集会』の画面でその二つのことを表現しています。白旗と枯れ木は避けられない戦争と死を暗示し、暗いい空はヴァツラフ4世が亡くなり国王不在で混乱するボヘミアの情勢を示しています。一方で赤い旗と緑の葉をつけた松はフス戦争の混乱からも復活するチェコの命と希望をあらわしています。

 ヤン・フスは贖宥状(免罪符)や司教の土地私有を批判して改革を求めましたが教会に反抗していたわけではありません。農民や市民たちも尊敬するフスを殺した教皇と皇帝を強く憎んで抗議していたものの、さまざまなグループがバラバラに行動していたにすぎませんでした。
 しかしフス派を恐れる教皇マルティヌス5世が異端撲滅の十字軍8万人をボヘミアへ侵攻させてフス派の人々を水刑、火刑で大勢虐殺し、さらにフスの安全を約束しておきながら護らなかった皇帝ジギスムントがボヘミア王として戴冠するためにプラハへ乗り込んで来るようになると民衆の怒りは爆発しまず。
 「この次からは武器を持って集まるように」とコランダ神父(Václav Koranda 1390-1453)が呼びかけた1419年9月30日クジージュキの集会以降ターボルに拠点を置く強硬派は戦闘の体制を強めることになります。戦闘のしかたなど知らない農民の集まりのターボル派はヤン・ジシュカ(Jan Žižka 1374-1424)を軍事指導者としてむかえることにしました。
 グルンヴァルトの戦闘(1410年)の活躍で注目されたジシュカはプラハの王宮警護官としてプラハ滞在中にベツレヘム礼拝堂でフスの説教にふれてフスを尊敬するようになります。その後なかば引退してプルゼニュ(ピルゼン)市の警護などをしていたようです。ジシュカは農民に戦闘訓練をしただけでなく兵器の開発や改良、戦闘陣形の工夫をして、プラハに迫ろうとする十字軍の大軍を撃退(ヴィトコフの戦い)するなど連戦連勝したため十字軍も皇帝軍もジシュカを恐れました。「ジシュカが来る」といううわさが流れるだけで敗走してしまう状態でした。
 ジシュカの死後もターボル軍は勝ち続けますがやがてターボル強硬派は穏健フス派に飲み込まれ、さらにカトリック教会との融和をはかろうとした穏健派も壊滅させられてしまいボヘミア(チェコ)は暗黒の時代へと進むことになります。
 『クジージュキの集会』は、『クロムニェジージュのヤン・ミリチ』、『ベツレヘム教会で説教をするヤン・フス』、『ヴィトコフの戦い』、『ポジェブラッドのイジー』、『ペトル・ヘルチツキー』、『クラリッツェ聖書』、『ヤン・アモス・コメンスキー』という『スラヴ叙事詩』のなかの中核をなす流れの要になっています。

クジージュキの会合

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