言葉の力
シメオン1世(863頃-927)はチェコではなくブルガリアの皇帝です。しかし『ブルガリアのシメオン皇帝』は、『大モラヴィア国のスラヴ語礼拝式導入』から『聖アトス山』へつながるスラヴ文化全体の重要なテーマです。ミュシャは『クロムニェジージュのヤン・ミリチ』、『ベツレヘム礼拝堂でのヤン・フスの説教』、『クジージュキの集会』を"言葉の力三;連作"と位置づけていますが、『モラヴィア国のスラヴ語礼拝式導入』、『ブルガリアのシメオン皇帝』、『聖アトス山』の三作も"もうひとつの言葉の力シリーズ"と位置づけることができます。
885年にメトジェイが亡くなった後、モラヴィア国のキリスト教はフランク王国教会のドイツ系司祭に替わられ、スラヴ語で礼拝するてメトジェイの弟子たちや信奉者は奴隷に売られたり追放されて離散し、多くがブルガリアに逃れて定住しました。ブルガリアはトルコと同系の遊牧民ブルガール人が681年に建国しましたが、住民の大部分はスラヴ人でした。支配層のブルガールはスラヴ人との同化が徐々に進んでついにはとって代わられるようになり、シメオンの父ボリス王(在位 852-889)の頃にはスラヴ人の国となっていました。
キリル文字
ビザンツ帝国で高い教育を受け修道院生活の経験もある知識人シメオン皇帝の下でブルガリアはスラヴ語の教育と文化の中心となり、「シメオンの文集」とよぶスラヴの文学や百科全書的な文献コレクションが築かれ科学も花を開かせました。いわゆるロシア文字、"キリル文字"はメトジェイの弟子たちがシメオンの保護のもとでギリシア文字を土台にグラゴール文字を融合して作りました。スラヴ語礼拝式導入を進めるブルガリアがギリシア語を公用語とするビザンツ帝国に隣接していたこと、ビザンティン文化の及ぶ東方世界ではギリシア語が普及していたなどの理由で、グラゴール文字を新たに学ぶよりもギリシア文字を土台にしたキリル文字が受け入れられやすかったのです。
グラゴール文字は11世紀のうちにほとんど廃れました。しかしキュリオス(ツィリル、キリル)とメトディオス(メトジェイ)によるグラゴール文字がなければキリル文字は生まれず、スラヴの文化が花開くのはずっと遅れていたでしょう。現在は、ブルガリア、ウクライナ、ロシア、ベラルーシ、セルビア、マケドニアなどでキリル文字を使っています。東方正教会(ギリシア正教)の地域です。
シメオンは一時期東ローマ帝国を圧倒するほどの軍事力を持ち「ブルガリア人とローマ人の皇帝」を称することもありました。
しかし彼の偉大さは文化面での功績にあります。ブルガリア(第一次ブルガリア帝国)は彼の死後11世紀に東ローマ帝国に吸収され滅びますが、シメオンが集めたスラヴ文化の精華はギリシア正教会の聖地アトス山にあるいくつかの修道院、なかでもブルガリア正教会のゾクラフウ修道院に伝えられ、その後のスラヴ文化発展に寄与しています。
シメオン王
現在のブルガリアは王制ではありませんが英国ウィリアム王子の婚儀には元国王のシメオンさん(シメオン2世 1937- 在位1943-1946、2001-2005 ブルガリア共和国首相)が列席されていました。
『ブルガリアのシメオン皇帝』 デッサン