ルドルフとオタカル(「ドイツの歴史」挿絵)

オタカル2世 ズビロフでの写真

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オタカル2世(プジェミスル・オタカル2世 Přemysl OttakarⅡ 1230頃-1278)
没後700年を記念して1978年に発行したチェコの切手
左 聖ヴィート大聖堂にある墓碑の像。右 紋章(封蝋)
プジェミスル朝のオタカル2世 (1261年)  ― 鉄のそして黄金の国王 スラヴ君主の連合 ―
テンペラと油彩   1924年  405cm×480cm

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スラヴ叙事詩

豪華な結婚式で
 1261年の豪華な結婚式でスラヴ各国の王たちを迎えるオタカル2世を描いています。
 オタカル2世はチェコ
(ボヘミア)を武力と経済力の両面でヨーロッパの強国にしました。永代借地の特権を与える法を定め商売と相続をまもる政策のおかげで商工業者や労働者、芸術家が多く流入してチェコの経済を豊かなものにしました。クトナ ホラーの銀鉱開発など経済力を背景に騎士団の無敵の強さと彼の寛容によってポーランドから北イタリア、クロアチアまで領土を広げオタカル2世は「鉄の王」とも「黄金の王」とも呼ばれるようになったのです。
 オタカルの目的は征服ではなく各地のスラヴ王室と親交を深め友愛と一致によって結束を促すことにありました。しかし皇帝の最有力候補オタカルの強大さを警戒する諸侯たちは貧乏伯爵ハプスブルク家のルドルフ1世を神聖ローマ皇帝に選びました。ルドルフとの妥協に追い込まれて次々と領土を失い、ついには1278年8月26日マルヒフェルトで戦いますがルドルフの伏兵作戦にボヘミア軍は敗退しオタカル2世は戦死します。オタカルの領土はハプスブルク・オーストリアにとってかわられました。
 
 オタカル2世
(在位1253-1278)の繁栄は短くオーストリアにとって替わられてしまいますが彼の治世下でボヘミアは経済、政治、文化いずれの面でも重要な地域となりました。数百年にわたってオーストリア・ハプスブルク家の支配下にあったチェコの人たちはミュシャをふくめて「黄金の王」オタカル2世の豊かな時代を心の中に思い浮かべることがありました。

プジェミスル・オタカル2世
ドイツの歴史
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