ズリンスキー総督によるトルコに対するシゲット防衛 (1566年)

 いよいよ戦いの最期を迎えるシゲットの要塞を描いています。
 立ちのぼる黒煙の左側には突入するイェニチェリ(トルコ軍兵士 の大軍に銃弾を浴びせようと構える兵士や鼓舞する指揮官。物陰に身をひそめる女性たちもいます。右側ではズリンスキーの妻エヴァはじめ、女性たちが要塞もろともイェニチェリを爆破しようと火薬庫に火をつける準備をしています。手前の異様な黒煙がシゲット防衛軍全滅の悲劇を暗示しています。デッサンを見るとこの黒煙はごく初期から画面構成のかなめだったことがわかります。
 シゲットで共に戦い亡くなった妻エヴァは、ボヘミア(チェコ)の貴族ロジュンベルク家出身で、ズリンスキーとは2年前の1564年に結婚したばかりでした。

 

『ズリンスキー総督によるトルコに対する市ゲット防衛』
初期のデッサン(油彩)

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テンペラと油彩  1914年  610cm×810cm

スラヴ叙事詩

ヨーロッパ征服
 ズリンスキーによるシゲット防衛戦
(シゲトヴァール包囲戦)がなければ、ウィーンだけでなくヨーロッパの多くがイスラム化していたでしょう。
 シゲットはルーマニア、クロアチアとの国境に近いハンガリー領にあり現在はセゲトと呼んでいます。1566年、ヨーロッパ征服をもくろむ大帝スレイマン1世
(1494-1566) に率いられてオスマン・トルコの大軍がウィーンを目指して押し寄せてきました。シゲットの総督 ニコラ・シュヴィッチ・ズリンスキー (1508-1566) の勇敢さを知っていたスレイマン大帝は、シゲットをそのままにして通過しウィーンを攻撃すれば、必ずズリンスキーが背後から攻めてくると考えて大軍でシゲットを攻撃したのでした。 包囲する10万人トルコ軍に対してズリンスキーは2,300人で抵抗、8月20日から9月7日まで19日間の激しい攻防ののち全滅しました。
 シゲットは陥落しましたが、その戦いでスレイマン大帝が没したためウィーンが攻撃を受けることはなくヨーロッパは守られたのです。
 「シゲット防衛戦」は、キリスト教世界とイスラム教世界の衝突ととらえることができますが、大帝の「スレイマン」という名前は古代ユダヤのソロモン王
(在位BC971頃-BC931頃 ダヴィデ王の息子)の名が、アラビア語を経てトルコ語に変化したものです。旧約聖書はイスラム教の聖典とされ、ソロモン王はユダヤ教、キリスト教と同じく、イスラム教でも預言者(神の言葉を預かり、託された言葉を民に伝える者)の一人です。
公園に
 現在クロアチアの首都ザグレブの中心部には、「ニコレ・シュビツァ・ズリンスコグ
(ニコラ・シュヴィッチ・ズリンスキー)公園」という美しい公園があります。ヨーロッパを守った英雄ズリンスキーを記念して命名されました。

『ズリンスキー総督によるトルコに対する市ゲット防衛』
デッサン(水彩)

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