国際平和機構
現代の国連(国際連合)にはポジェブラッドのイジー王(1420-1471)の理念が受け継がれています。
フス派の内部対立を終結させてボヘミア王に推戴されたイジー王(ボヘミア中部ポジェブラッドの領主)はフス派とカトリックの融和、永久平和の保証、国際間の相互協力・援助のためにヨーロッパ・キリスト教王国連合を設立する計画を提案し実現のための外交交渉を積極的に展開しました。
ピウス2世はじめローマ・カトリック教会の妨害にあいながらも政治力、外交力と硬貨流通による経済活性化、先進的な兵器開発などによって優勢に傾き連合条約の発効は近いと思われていました。しかしピウス2世以上にイジー王を嫌っていたパウルス2世が教皇(ローマ法王)になると貴族たちの寝返りが広がってイジー王の計画は頓挫してしまいました。
イジー王の理念に通じるヨーロッパ連合や国連など国際機構の実現は20世紀までまたなければなりませんが、イジー王時代の15世紀、ボヘミア(チェコ)は ヨーロッパで唯一の信教の自由が認められていた国でした。
晩年のイジー王はフス派を敵視する教皇から和平工作を拒否され教皇の支持を背景に神聖ローマ皇帝の位を狙うハンガリー王マチャーシュ1世(1458-1490)にモラヴィアを奪われて1469年にはボヘミアの王位も剥奪されてしまいました。
1471年にイジー王が亡くなった後、ボヘミア(チェコ)は1918年にマサリク(1850-1937)がチェコスロヴァキア共和国初代大統領となるまで400年以上にわたって外国に支配され続けることになります。
1945年、第2次世界大戦が終わりナチスドイツから解放されたチェコスロヴァキア共和国はイジー王の肖像を新しい1000コルナ紙幣にデザインして復活を祝いました。
フス派のシンボル "聖杯"
『ハンガリー王マチャーシュ1世と対峙するイジー王』
ミコラーシュ・アレシュ Mikoláš Aleš (1852-1913)
「フス派信徒の信仰を護るために自分の命と王位をかけて戦う」と怒りをもってローマ教皇の特使に宣言して立ち上がるイジー王の姿が勢いで倒れた椅子とともに右側に描かれています。
1462年4月、ローマ法皇ピウス2世はカトリックとウトラキストの宥和を成し遂げたイジー王を裏切り、フス派信仰を認める"プラハ条約"の破棄をせまってきたのです。
法王の通告を受け入れるとボヘミアが再び内戦に陥いるためイジー王はボヘミアの統治権を盾に拒否しましたが、ローマ・カトリックは彼を破門します。
ボヘミアの平和に楔を打ち込むかのようにローマ教皇の特使ファンタン・ド・ヴェールがイジー王と対峙して描かれる緊張感のある画面構成です。
イジー王の手前、右隅のもっとも暗いところに本を閉じる少年がいます。 バンと勢いよく閉じた本の表紙には“ ROMA”の文字が見えローマとの関係の終了を暗示しています。
ウトラキスト派と「聖杯」
フス教徒はひとつにまとまっていたのではなく、さまざまなグループに分かれていました。大きくわけると急進的「"ターボル派」と穏健な「ウトラキスト派」の二つがありました。
二種類の聖餐を意味するウトラキスト派(両方という意味のラテン語「ウトラクエ」が語源)はパンとブドウ酒の聖餐や聖職者の道徳など教会の改良を求めて交渉しようとした都市貴族と商人、大学人が中心でした。キリストによる救いの証であるパンとブドウ酒の聖餐は今では世界中の教会で当たり前ですが、フスの教会改革以前のカトリック教会では「救われるのは聖職者のみ」として信徒には許されていませんでした。
一方のターボル派は教会そのものを否定し財産の共有制を主張し、神の国建設を武力で勝ち取ろうとした農民職人や浪人騎士たちによる戦闘的なグループです。彼らは南ボヘミアのターボルに砦を築いて拠点としたため、「ターボル派」とよばれました。
「ターボル」の名前はイスラエルの「タボール山」に因み、紀元前3世紀から紀元前1世紀にかけてローマ人に抵抗するユダヤ人が立てこもった要塞があった山です。現代イスラエル国軍でも軍用小銃の機種名に「タボール」とつけています。またキリストが育ったナザレの近くなのでキリストの昇天がこのタボール山であったという伝説が2世紀ころに生まれ、今に伝えられています。