コメンスキーは亡命先のアムステルダム近郊ナーデルの海岸で祖国を思いながら終わりの時を迎えようとしています。
絶望する友人たちと寒々とした風景がそれを表していますがわずかにさす光と浜辺に置かれたランプの灯が300年の苦難を経て実現する希望を暗示しています。
この光の表現にはパリでミュシャと教室を共有していたホイッスラーの影響が見てとれます。
コメンスキー
名前は知らなくてもみんなコメンスキー(1592-1670)のおかげで育ちました。同じ年齢でそろって入学し同じ教科書を使って学び一緒に同時に卒業するという今では誰もが当たり前と思っている学校教育の仕組みも教科書もコメンスキーによって「知識をすべての人が共有するため」に考えだされたものです。
30年戦争(1618年-1648年)といわれる混乱の時代にコメンスキーは知識の共有が戦争を終わらせ ヨーロッパをひとつにすると考えていました。その考えは現代ではユネスコの根本思想となっています。
誕生の前から 高齢者まで
学校教育だけでなく、コメンスキーは出産前の母親教育から死と向き合うための高齢者の心の準備まで生涯にわたる教育全般を体系的に論じました。教科書として書いた世界で最初の子どものための絵入り百科事典『世界図絵』や『大教授法』などの著書(著者名のヨハネス・コメニウスはラテン語)でも知られています。「知の迷宮」 「迷宮美術館 (NHKの番組)」など複雑で生き生きとした知的探求の魅力を指す「迷宮」も始まりはクノッソスの迷宮ですが、コメンスキーの代表作『世界の迷宮』によって誰もが知る言葉になりました。
希望の光
コメンスキーはもちろん比類のない天才ですが彼の知性と平和の希求は戦争の悲惨とチェコ兄弟団(スラヴ叙事詩「イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校」参照)の高い教育によって育てられました。そして彼は非カトリック教徒追放令(1627年)にはじまる自身の亡命流浪の苦難の中から政治も文化も信仰も 国民の権利のことごとくを剥奪されて悲惨な状況にある祖国チェコに向かって“希望”を語り続けたのです。
「コメニウス(コメンスキー)の肖像」(部分)
オヴェンス(Jürgen Ovens 1623-1678)