イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校

イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校    クラリッツェ聖書の発祥地

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 テンペラと油彩   1914  610×810 cm

コメンスキー

生まれた町から
 ミュシャの生家はこのすぐ近く、数百メートルのところにあります。 時代は離れていますが少年のころからよく知っている場所です。
 農耕、手工業を中心に質実な信仰生活を実践するチェコ兄弟団
(友愛統一教団 ) は、ペトル・ヘルチツキー (1390-1460) の教えを受けて 1467年に北東ボヘミアで誕生し、16世紀はじめにはボヘミア、モラヴィアに信徒10万、教会数200を数える組織に成長しました。
 聖書を理想にして清貧生活を実践するために兄弟団では初期には教育を否定していましたが、後に人文主義を受け入れて教育水準の高い宗教教団になりました。 モラヴィア南部のイヴァンチッツェ
(ミュシャの生地) のモラヴィア兄弟団学校は教育レベルが最も高いことで広く知られていました。 とくに 「チェコ語文法」 の著者 ヤン・ブラホスラフによる聖書のチェコ語訳はチェコ文学の精華といわれ、イヴァンチッツェはチェコの人々に今も優れた教育の町と位置づけられています。
 モラヴィア兄弟団学校の新約旧約聖書は、1578年にイヴァンチッツェ近くのクラリッツェに印刷所が移ったため、クラリッツェ聖書と呼ばれチェコ語文章体の基礎になりました。 クラリッツェ・チェコ語訳聖書は、ドイツの宗教改革者ルター訳の聖書がドイツ語表記や文法のもとになっているだけでなくゲルマンの人々に
国家とドイツ民族の意識をはぐくむもとになったことと似ています ("ドイッチュ"は 「民衆の」 という意味)
世界へ
 1620年のビーラー・ホラー
(白い山) の戦いで穏健フス教徒 (ウトラキスト聖杯派) のチェコ貴族たちは、ボヘミア支配を狙うハプスブルク・オーストリアに抵抗して殲滅されました。 これ以降 1918年までチェコの暗黒時代が続きます。 1627年には非カトリック教徒追放令が出てフス派のチェコ兄弟団は弾圧され信徒の多くは国外追放になり、チェコ国内の兄弟団は壊滅させられます。 しかし、国外退去によって、信仰中心の清貧生活、友愛主義などチェコ兄弟団の信条はキリスト教プロテスタント信仰に影響を与え、民主主義思想の根幹となって世界中に広まり現代に生きています。