グリュンヴァルトの戦いが終わって

 ミュシャは戦闘の場面ではなく戦いが終わった翌朝の光景を画面にしました。
 中央ではリトアニア大公でポーランド王を兼ねる
ヴラディスラフ・ヤゲウォ2世が戦場を検分しています。
 大勢の戦死者の中にはドイツ黒十字の原型
(ナチスのカギ十字はドイツ黒十字をもとにしています)のドイツ騎士団の十字紋章を身につけた騎士団総長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲンの遺体もあります。散乱する騎士団の白い旗は戦争の悲惨とともに北スラヴの希望を示しています。
 惨状を悲しむ王とともに立つ将の中には、フス派戦争で農民軍を組織して活躍するヤン・ジュシュカが右目に眼帯をして描かれています。

グルンヴァルトの戦いが終わって (1410  ― 北スラヴ民族の同盟 ― 

戦闘の場面を描いた 『グルンヴァルトの戦い』 1878年
ヤン マテイコ (1838-1893) ポーランドの画家

ポーランド vs ドイツ
 1410年7月15日、不敗といわれていたドイツ騎士団を北スラヴ連合軍がポーランド北部の平原で破りました。
 ドイツ騎士団修道会の実態は十字軍の流れをくむ異教徒殲滅を目的とする軍事国家だったので騎士団の支配を嫌ったポーランドやリトアニアのスラヴ人たちは連合軍を組織して闘ったのです。連合軍にはポーランド人、リトアニア人だけでなくボヘミア
(チェコ)、モラヴィア、ロシア、タタール、オランダ、ルテニアなどの援軍が参加していました。
 この戦いの結果ポーランドは強大な国家となり、ドイツではプロイセン自治都市連合成立につながる歴史の変化をもたらしました。この戦いでグルンヴァルトはポーランド領になりましたが1525年にプロシアに奪われ、1945年のナチス・ドイツ崩壊後ふたたびポーランドに返還されて現在に至っています。グルンヴァルトはドイツ名タンネンベルクといい、ドイツでは「タンネンベルクの戦い」と呼んでいます。
 この戦いに加わったたボヘミア義勇軍には、後のフス派戦争で軍事的天才の名をほしいままにする
ヤン ジシュカ (1374-1424) が参加しており、ヴィトコフの戦いなどのちのジシュカの戦いぶりを見ると、この時にドイツ騎兵との戦闘やロシア人たちの荷馬車を使った防衛戦法などから学んだと考えられます。
500年後ふたたび
 500年後の1914年8月、第一次大戦ではグルンヴァルトの近くでロシア帝国とドイツ帝国が戦い、1410年とは逆にドイツが圧勝しました。中世の雪辱を果たしたとしてドイツでは1410年と1914年の戦闘をともに「タンネンベルクの戦い」と呼んでいます。

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スラヴ叙事詩

テンペラと油彩  1924年  406×620 cm