スラヴ人の国
 モラヴィア国
(大モラヴィア国、モラヴィア王国、モラヴィア公国とも)はスラヴ人による最初の国家です。(623年から657年までサモという国がのちのモラヴィア国と重なる地域にあった。国民の大部分はスラヴ人だったがフランク人サモが支配していた。サモの死とともに消滅したとされる。)
 アヴァール人に征服されたスラヴ人たちがゲルマン民族の大移動で空いた土地に連れられて移住し、アヴァールが弱体化した830年にモイミール公がフランク国の助けを得て現在のチェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ポーランド、オーストリアのかなりの部分を含む広大な国家を建設しました。

 846年に2代目統治者となったのロスティスラフ公は"キリスト教化"を名目に侵入をもくろむ東フランクなど周囲の敵国から独立をまもるために独自の教会組織を作ってキリスト教を導入することを決意します。
 モラヴィア国の要請で863年にビザンツ帝国東方教会から派遣された
聖ツィリル(キュリロス827-869、本名コンスタンティノス)と聖メトジェイ(メトディオス 826-885はスラヴ人の言葉による礼拝式を定めて礼拝をとりおこない、古代スラヴ語を表記する"グラゴール文字"を考案して礼拝式用福音書(アプラコス)や聖書を古代スラヴ語に翻訳しキリスト教を広めただけでなくスラヴ文化の発展に寄与しました。(現在ロシアやウクライナ、ブルガリアなどで使う「キリル文字」は、ギリシア文字を土台にグラゴール文字を取り入れてメトジェイの弟子たちがブルガリアで改良した。)
スラヴの言葉で

 教会公用語のラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語でなく"自分たちの言葉"で礼拝をおこなうことはカトリック教会からは許せないことでしたが"言葉"を大切にするスラヴの人たちにはとりわけ重要でした。"Slav スラヴ"ということばには「儀式」「祝典」「言葉」というニュアンスが含まれており、現代チェコ語でも Slavnost、 Sláva は「名誉」や「名声」、Slavit 「ほめたたえる」、Slovo 「言葉」、「約束」、「発言」、「スピーチ」など言葉にかかわる意味があります。
 当時のヨーロッパでキリスト教を受け入れることはいわば"文明開化"であり、"安全保障"の面もあってモラヴィア国ではキリスト教導入によってスラヴの言葉による文化が花開きました。"神聖"なラテン語でなく"民衆の言葉"のスラヴ語で神をたたえることは、のちの"宗教改革"にも匹敵するほどの画期的なことでもありました。
 豊かな文化の時代は長く続かず、"鉄十字"をかかげて画面左から迫ってくる東フランク国のカトリック司祭にとって替わられます。ロスティスラフの甥で親フランクのスヴァトプルクが位を奪いメトジェイも3年余り投獄されます。885年にメトジェイが亡くなると東フランク教会はモラヴィア国のスラヴ語礼拝式を禁止し、メトジェイの弟子たちを異端として奴隷に売ったり国外に追放しました。離散したメトジェイの弟子たちはブルガリアで保護されシメオン1世のもとでスラヴ文化の花を開かせることにつながり、シメオン1世によるスラヴ文化の精華はその後「聖アトス山」に保管され現代にまで伝わることになります。
 モラヴィア国は東フランク教会とローマ・カトリック教会の対立に翻弄され100年にも満たず崩壊しました。チェコ、モラヴィアのキリスト教はローマ・カトリック系に置き換えられて礼拝はスラヴの言葉でなくラテン語で行い、チェコ語をはじめスラヴ系の言語はどの地域でも劣ったものとされる時代が1918年まで1000年以上にわたって続きます。しかしツィリルとメトジェイへの崇敬は国民の心に深く刻まれていて、のちの時代の宗教改革者フス、国際平和の仕組みを作ろうとしたイジー王、チェコスロヴァキアを独立に導いたマサリク、共産党独裁からビロード革命で自由を取り戻したハヴェルなど自由を求めて民衆とともに戦う彼らの思想と行動はツィリルとメトジェイがまいた種から実を結んだといえるでしょう。
ステンドグラス
 プラハ城の聖ヴィート大聖堂にはミュシャの美しいステンドグラス
(1931年)があります。ステンドグラスのテーマは聖ツィリルと聖メトジェイです。ヴィート大聖堂は聖ヴァツラフ1世の10世紀のいしずえの上に14世紀にカレル4世が聖堂を築きはじめ、20世紀になってチェコ国民の寄付によって完成しました。数百年かけて築いた大聖堂にミュシャはスラヴの文化と歴史の起点ともいえる聖ツィリルと聖メトジェイを描いたのです。

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モラヴィア国のスラヴ語礼拝式導入 (863-880  ― 母国語で神に祈る ―  

L.ヤナーチェク
(2004年)

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大モラヴィア国のスラヴ式礼拝式の導入
テンペラと油彩  1912年  610 × 810 cm

モラヴィア国 1100年切手
(1963年)

『グラゴール・ミサ』
 
ヤナーチェク(Leoš Janáček 1854-1928)晩年の合唱曲(オーケストラと合唱、独唱)に『グラゴール・ミサ』という傑作がある。
 ツィリルとメトジェイの古代スラヴ語(グラゴール文字)礼拝式福音書をテキストにしており、曲の構成はミサ曲だが宗教曲らしさはあまり感じない。むしろ金管ファンファーレ、ティンパニーの使い方などは『シンフォニエッタ』と共通する。
 古代スラヴ語がテキストで『グラゴール・ミサ』として1927年にブルノで初演したが、作曲中はこの曲を「スラヴ・ミサ」としていた。モラヴィア出身で熱心な汎スラヴ主義者だったヤナーチェクは、教会音楽というよりむしろスラヴの音楽、モラヴィアの音楽と考えて作曲した。

スラヴ叙事詩

 画面は西暦880年、スラヴ語の礼拝式を承認しメトジェイを大司教に任命するローマ教皇の手紙を読みあげているところです。
 画面中央、円形の建物の前に立つ白髪の老人がメトジェイ。
(ツィリルはこれ以前にローマで亡くなっており、ソコルの輪を持つ若者の上に弟子たちとともに描いています。)

 1963年、当時のチェコスロヴァキアは宗教を認めない共産党の支配体制下でしたがツィリルとメトジェイがモラヴィアに派遣された863年から1100年の節目を"大モラヴィア国"の名目で切手を発行して記念しました。