ブルガリアのシメオン皇帝
ブルガリアのシメオン皇帝 (888-927  ― スラヴ語文学の暁の明星 ― 

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テンペラと油彩  1916年  406 × 480 cm

スラヴ語典礼

教育と文化
 シメオン1世
(863頃-927)はチェコではなくブルガリアの皇帝です。しかし、この作品は「スラヴ叙事詩」の「大モラヴィア国のスラヴ語礼拝式導入」からつながり、さらに「聖アトス山」にもかかわるスラヴ文化全体の重要なテーマです。
 大モラヴィア国ではメトジェイが亡くなった後、ドイツ系の司祭に替わられてメトジェイの信奉者たちは追放されその多くがシメオンの治めるブルガリアに定住しました。
 そのためブルガリアはスラヴ語の教育と文学の中心となり、修道院生活の経験もある知識人のシメオン皇帝の下でスラヴ文学のコレクションが築かれ科学も花を開かせました。
 シメオンは一時期東ローマ帝国を圧倒するほどの軍事力を持ち「ブルガリア人とローマ人の皇帝」を称することもありました。
 しかし彼の偉大さは文化面での功績にあります。彼の死後11世紀にブルガリアは東ローマ帝国に吸収されますがシメオンが集めたスラヴ文学の精華はギリシア正教会の聖地アトス山にあるいくつかの修道院に伝えられその後のスラヴ文化発展に寄与しています。
 現在のブルガリアは王制ではありませんが英国ウィリアム王子の婚儀には元王家のシメオンさん
(シメオン2世)が列席されていました。