キエフ・ルーシ イーゴリ公とオルガ(右の2人)
 4人のうち右2人はキエフ・ルーシ公イーゴリ1世
(在位912-945)とその妻オルガ(?-969)です。
 "キエフ・ルーシ
(キエフ公国、キエフ大公国)"は、モンゴル系騎馬民族アヴァールに連れ去られずに"スラヴ原故郷"に残っていたスラヴ人を、さらにノルマンのヴァイキング一派ルーシ族が北西のスウェーデンから攻め込みスラヴ人を征服、支配して建国した国です。
 交易にたけた二代目首長イーゴリはドニエプル川流域とビザンツ帝国を経済で結んでいましたがスラヴ人部族間の対立で殺され、かたきを討った妻のオルガが息子スヴャトスラフを補佐し、キリスト教を受け入れて周辺国と良好な関係を築きキエフを隆盛にするとともにキエフ・ルーシ
(キエフ公国)の地位も文化も高めました。
 キエフ・ルーシは1240年にモンゴルの侵攻によって崩壊しました。"タタールのくびき"と呼ぶ厳しい支配のもと、スラヴ人からモンゴルへの貢物取り立てを請け負っていたモスクワ公が不正蓄財で力をつけモスクワ公国をモスクワ大公国へ格上げに成功して建国したのが後のロシアです
("ルーシ"のギリシア語読みが"ロシア")。ロシア正教会の母体もキエフ正教会です。
 ウクライナの宗教は、東部ではロシア正教会に含まれるキエフ正教会の地域があり、西部のガリツィア地域にはビザンツとローマ双方の影響を受けた"ギリシア・カトリック教会
(ギリシア正教会の礼拝式を行いながらローマカトリックの権威を受け入れる。東方典礼カトリック教会。英語でユニエイト。)"、クリミア半島にはイスラム教を信仰するクリミア・タタールの人たちがいます。
ブルガリアのボリス王と王妃
(左の2人)
 キリル文字を定めスラヴ文化の開花に貢献したのはシメオン1世
(863頃-927)です。しかしメトジェイの弟子たちをブルガリアに受け入れたのはシメオンの父ボリス王(?-907、在位852-889)でした。
 ボリスはブルガール人とスラヴ人の融和を進め、ビザンツとローマの東西教会対立を利用してブルガリアの地位向上を図るなどシメオン王政繁栄の基礎を築きました。
 889年に長男のウラディミールに位を譲り修道院に入りますが、反教会的なウラディミールを廃位して第三子シメオンを王位につけました。

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スラヴ語礼拝式導入

『ブルガリアのシメオン皇帝』
 
― 『スラヴ叙事詩』 ―

ブルガリアのシメオン皇帝

シメオンの父ボリス王(右)と妻(左)

キエフ・ルーシのイーゴリ公(左)と妻の聖オルガ(右)