聖ツィリルと聖メトジェイを図柄にしたチェコスロヴァキアの切手(左)
ブルノ・ペトルパウロ教会の聖ペテロ像(右)
聖歌隊でミュシャが歌っていたブルノのペトルパウロ教会(右)と切手(左)
ロシア正教会の現総主教(モスクワ総主教)は「キリル1世」を名乗っています。事業家、資産家で、ともにKGBエージェント(スパイ)の経歴を持つプーチン大統領と親しく、聖アトス山に同行して訪れたこともあります。
「キリル」とはキュリロス(827-869 ツィリルはキュリロスのチェコ語読み)のロシア語読みで、ロシアなどで使っている「キリル文字」もキュリロスにちなむ呼び方です。
キュリロスが活動したモラヴィア国とロシアは、西と東にスラヴ民族が遠く分断された後、それぞれの土地で別々に成立しました。15世紀頃に「ロシア」と名乗り始めたモスクワ公国は、9世紀のモラヴィア国と直接の関係はなく、ロシアにとって「キリル」とのつながりはほとんど「キリル文字」のみといえます(キュリロスが作ったのは「キリル文字」ではなく「グラゴール文字」で、「キリル文字」は後の時代にブルガリアでメトジェイの弟子たちがギリシア文字を土台に作った。キエフ・ルーシがビザンツ帝国の東方正教会を受け入れ、キエフ・ルーシ正教会から派生したロシア正教会にもキリル文字が伝わったが、ロシアのキリル文字にはピョートル大帝による改良が加わっているためウクライナ、ブルガリア、ベラルーシのキリル文字とは異なるところがある。)。
「キリル」という名前はロシア人に珍しくはありません。しかし、2009年に就任した新総主教(本名 ウラディミール・ミハイロヴィチ・グンジャエフ)が、それまでなかった「キリル」総主教を1100年の空白の後に1世として名乗った時、戸惑う声がロシアでもありました。
聖ツィリルと聖メトジェイ
油彩 1885年頃
聖ツィリル(修道士名キュリロスのチェコ語読み 本名コンスタンティヌス)と聖メトジェイ(ラテン語名メトディウス)はスラヴの人々が自分たちの言葉で礼拝できるように礼拝式を整備しただけでなく、スラヴ語を表記できる文字を作ってスラヴ文化の礎を築いたためスラヴ世界ではもっとも重要な人物としてあがめられています。
ミュシャは20代のミュンヘン時代に『聖ツィリルと聖メトジェイ』の祭壇画をアメリカのチェコ系教会からの依頼で制作しました。そのころのミュシャの関心を反映してバロックの影響が顕著なだけでなく、この作品には後の挿絵、ポスター、そして『スラヴ叙事詩』にいたる"ミュシャ・スタイル"のほとんどの要素の萌芽が見られます。
ミュシャ特有のポーズの表現もすでに現れています。このポーズにはミュシャが少年時代に毎日目にしていた聖ペテロ像が反映され、早くからバロック様式にひかれていたことがよくわかります。