スラヴ叙事詩

原故郷のスラヴ民族  ― スラヴ民族の起源 ―        

スヴァントヴィトのデッサン写真

スヴァントヴィトの切手(1990)

ポスターのスヴァントヴィト像

「グスタフ・アドルフの死」  (「ドイツ史」から

青い夜空と白い星

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三季節

1912年 テンペラと油彩  610×810 cm

原故郷
 チェコの人たちが現在の土地へどのようにして来たか詳しくはわかっていません。9世紀半ばまでスラヴ民族が文字を持たず記録を残さなかったからです。発掘や周辺国の史料文献、伝説などから、スラヴ民族の祖先はバルト海と黒海に挟まれたドニエプル川中流域、現在のウクライナからベラルーシ、カルパチア山脈付近で部族ごとに農耕をして住んでいたことがわかってきました。
うねりのなかで
 「ゲルマン民族大移動」の大きなうねりのなかでスラヴ人たちはモンゴル系騎馬民族アヴァール人に征服され、ゲルマン人が去って空白になった土地(ボヘミア、モラヴィアやバルカン諸国)に連れて来られました。ヨーロッパ東部の狭い地域に住んでいたスラヴ民族が中欧からバルカン半島にかけて広く住むようになったのは、アヴァールがスラヴ人を連れてフランク王国の東の辺境やバルカン半島まで侵入したためと考えられています。さらに10世紀にはマジャール族のハンガリーが割って入って来て西スラヴとバルカン半島の南スラヴが分断され、スラヴ民族は東、南、西に別れました。
 支配層のアヴァールは徐々に弱体化し791年にカール大帝のフランク王国によって滅ぼされました。しかしその後もスラヴ人たちはフランク王国とビザンツ帝国の強国間で翻弄され続けます。引き離されたあとも、しばらくはひとつの言語、「共通スラヴ祖語」を使っていましたが、時代を経るにつれ地域の気候風土、生活環境、歴史の違いで方言化し、さらに受け入れた宗教
(フランク国教会、西方ローマ教会・東方正教会など)によってスラヴ語は東(ウクライナ、ベラルーシ、ロシア)、南(ブルガリア、マケドニア、スロヴェニア、ボスニア、クロアチア、セルビアなど)、西(チェコ、スロヴァキア、ポーランドなど)と分化が進みました。
 画面右側のスヴァントヴィト像には武器を持つ若者と平和を表す少女がすがりつくように寄り添い、スラヴ民族の独立と幸福の希求を象徴しています。背景の騎馬の群れは焼き討ちをしかけながら襲ってくるアヴァールです。
"青"
 『原故郷のスラヴ民族』を実際に見ると引き込まれるような青い夜空が印象的で、さらに白くかがやく星が深い青を際だたせています。
 ミュシャ作品の「青」は、スラヴの原点を象徴するたいへん重要な意味を持っています。この青い空はスヴァントヴィトの白い衣装を印象的にするだけでなく画面全体そして『スラヴ叙事詩』全体の意味を伝える演劇的効果もあわせ持っています。深く澄んだ青を表現するためにミュシャはなんどもデッサンをかさねて『原故郷のスラヴ民族』を制作しました。
 「青」は、国、地域、言葉が分化する前のスラヴ民族が一体だった太古の時代をあらわします。「スラヴは一つ」という、19世紀に盛んだったパンスラヴィズム
(汎スラヴ主義)の思想が背景にあるのは確かですが、ミュシャは素直にスラヴの歴史、文化の偉大さ、また困難の中で絶えず変化し進化してきたことの理解をチェコ国民(当時はオーストリア帝国内のスラヴ人)に願い、『スラヴ叙事詩』の原点として表現しています。「装飾画家」と誤解されることが多いミュシャは実際にはデッサン力、画面構成力に卓越し、色彩画家としても第一級の画家です。
 2017年の東京展では照明の演色性が低く本来の色調でないため"青"が伝えるメッセージが届かなくて残念でしたが、『原故郷のスラヴ民族』の深く澄んだ青い空には色彩で語るミュシャの魅力が凝縮されています。
 古代、「青」は黄金よりも高価とされるラピスラズリで描かれ、教会の礼拝堂天井は高貴な青で彩色する伝統がありました。『スラヴ叙事詩』全20点の原点となる"青"です。
スヴァントヴィト
 スヴァントヴィトは古代西スラヴの全能の神とされています。バルト海のルヤナ島
(現在はドイツ領リューゲン島)のアルコナに神殿がありました。戦争の神とされていたのが中世には太陽信仰と結びついて平和と希望の象徴に変わってきました。4つの顔(「トリトン」と混同して3つとも)、剣、リュトン形の角杯を持ち、金色の巻髪の少女と白馬を従えていると伝わっています。
 この絵のスヴァントヴィトは属性のすべては備えてはおらず、雷神ペルン
(東スラヴでは主神)の要素もあえて描いています。しかし腰の剣、寄り添う若者と少女、また衣装の白と赤によってチェコの人たちにスヴァントヴィト神をイメージするように描いていることは明らかです。ミュシャは夜空の深い青とスヴァントヴィトによってスラヴが一つだった「原故郷」を表しました。
脅威
 農耕と狩猟で暮らしていたスラヴ人は周囲の遊牧民や騎馬民族に征服されたり追われて部族ごとに移動し、ロシアから中欧の広い地域に住むようになりました。この作品ではスラヴ民族の原点とともに、脅威にさらされ続けた歴史を描いていますが、若いころにパリでかかわった『ドイツ史
―歴史の情景とエピソード―』の挿絵それも自身のではなくロシュグロスが描いた挿絵)の経験から得た表現が見られます。

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