異なる歴史
『スラヴ叙事詩』は遠い国の知らない歴史ではありません。日本のわたしたちともさまざまなかかわりがあります。
ヨーロッパの中央にあって他国に支配されつづけたチェコの歴史は、歴史を通して独立を保ち続けている平和な島国日本とは大きく異なり、すぐには理解しにくいこともあります。しかし異なる歴史だからこそかえって日本の私たちに歴史と向きあい方を示唆し、歴史と向き合う意味を考えさせられることが
『スラヴ叙事詩』 には非常に多くあります。
構想のめばえ
ミュシャにとって『スラヴ叙事詩』は三度目の「歴史画シリーズ」にあたります。6m×8m、小さいものでも4m×5mもある超大作20点からなる『スラヴ叙事詩』を制作するいくつかの理由と要因がミュシャにはありました。
『スラヴ叙事詩』を詳しく見るとイヴァンチッツェ、ブルノ、ウィーンで過ごした少年期、その後のミュンヘン時代やパリの美術学校の生活、ポスター、装飾パネル、カレンダーの仕事、挿絵画家の経験が強く反映しています。なかでも舞台美術制作にかかわっていたウィーン時代の経験とセニョボスの『ドイツ史 -歴史の情景とエピソード- Scènes et Épisodes de l'Histoire de Allemagne』が決定的な影響を与えており、ごく早い時期から構想のめばえがありました。
進化する社会
『スラヴ叙事詩』制作の直接の動機は、「芸術の本来の役割として、チェコ国民が自国の歴史と向きあうための絵画を制作することが画家の自分に課せられた責務」と若いころからミュシャが考えていたことにあります。さらに、1900年のパリ万博で南スラヴの歴史を壁画に描くため現地に取材した時の体験が「歴史」と「絵画制作」の両面で構想具体化を後押ししました。
歴史家パラツキー(František Palacký 17981-876)の『ボヘミア史』などの著作をはじめ、音楽ではスメタナ(Bedřich Smetana 1824-1884)の連作交響詩『わが祖国 Má Vlast 』、文学ではイラーセク(Alois Jirásek 1851-1930)の歴史文学という優れた成果がある一方で、「視覚に直接訴えるがゆえに最も効果的」とミュシャが考える絵画では歴史と向きあうための作品制作がまだ誰にもなされていないという強い思いがミュシャにはありました。
「歴史のエピソードとその情景でつづるチェコの歴史」という『スラヴ叙事詩』の性格には、『ドイツ史 -歴史の情景とエピソード-』や『歴史イラスト集 Album Historique 』の挿絵制作の経験が強く反映しています。歴史的事件のクライマックスではなく、社会に変化をもたらす契機となった歴史の場面を題材にしているのは 「社会は変化するという認識が社会の進化をもたらす」
と説いた『ドイツ史』の著者セニョポスの影響です。
「歴史」と「伝説」
『ギルガメシュ』をはじめ、古代ギリシアの『イリアス』、『オデュッセイ』、フィンランドの『カレワラ』 やヒンドゥーの『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』、ロシアの
『イーゴリ公戦記』など神話や歴史、英雄を伝える「叙事詩」が各地にあります。しかし『スラヴ叙事詩』という「伝承文芸」は、チェコにもスラヴ諸国にもありません。
『スラヴ叙事詩』とは、「スラヴとチェコの歴史を描いたオリジナルの絵画シリーズ」にミュシャ自身がつけたタイトルであって、「絵画でつづる叙事詩のような作品」というほどの意味です。
チェコには吟遊詩人に歌い継がれた伝説が数多くあり、古くから民衆に親しまれていました。近代の歴史学以前には、民衆の間ではむしろ伝説が「歴史」だったのです。『スラヴ叙事詩』に先行するスメタナの『わが祖国』、イラーセクの歴史物語も歴史と伝説の両方から題材を得ています。ミュシャの『スラヴ叙事詩』も綿密な考証による写実的な歴史の場面と象徴的表現が同居する独自の描き方が魅力です。
演劇的体験
『スラヴ叙事詩』を見る人は巨大な画面に驚きます。「これほど大きくする必要がどこにあるのだろう?」と。「アールヌーヴォーの華」ミュシャが変わってしまったと戸惑いを感じる人もいます。
ミュシャはチェコの「未来の希望」を描いた画家です。様々なジャンルや題材を手がけていますが、画業のスタートから亡くなるまで一貫してチェコの伝統をまとって制作をつづけました。
ミュンヘンでもパリでも歴史画を学び、どちらの町でもミュシャはチェコ人・スラヴ人画家グループの中心的存在でした。伯爵の援助が途絶えたときもまずプラハの出版社に連絡して挿絵の仕事をはじめたのです。最初期の仕事がチェコやドイツなど歴史の挿絵であったことは
『スラヴ叙事詩』 を考えるうえで大変重要です。
劇場文化最盛期のウィーンで10代から舞台美術に携わっていたミュシャにとって大画面の構成と表現はもっとも得意とするところでした。『スラヴ叙事詩』や壁画には舞台美術特有の表現が随所に見られます。パリでもさらに演劇センスをみがく機会をえたミュシャには『スラヴ叙事詩』の母胎となる着想の初期から歴史の場面を大画面に表現する必然があったのです。
『スラヴ叙事詩』はまるでその場に居合わせているような「演劇的体験」を見る人にひきおこします。そのために群衆を等身大に描く必要があり、必然的に左右の広がりと高さ、奥行き感のある巨大な画面となったのです。視界いっぱいの画面をさらにはみ出でる描き方も、こちらをじっと見つめる人物もミュシャがもくろんだ 「画面の中へ誘い込む演劇的効果」 のテクニックでもあるのです。
未来の希望
ヨーロッパ中央部に位置するチェコはドイツやロシアだけでなく周囲の強国に支配され続けました。しかしチェコの歴史は、過酷な環境の中で中世から近世、近代、現代へと世界を変革する重要な思想、社会の仕組みや発明を生み出した歴史でもありました。チェコがオーストリア帝国の支配下にあった当時に国民のひとりひとりが未来に確かな希望を持つには自分たちの歴史と向きうための絵画作品が必要だと永く国外にいたミュシャは痛感していたのです。「目から心に直接はたらきかける絵画には音楽や文学よりも人々の知性と感情に訴える力がある」と画家のミュシャは確信していたからです。
無用の長物
『スラヴ叙事詩』はチェコ国民のためのメッセージとして制作されました。しかし作品が完成したとき、すでに10年前に独立を果たしていたチェコスロヴァキア共和国と国民からは、『スラヴ叙事詩』
はメッセージも絵画作品としても時代遅れの「お荷物」、文字通り「無用の長物」とされ、プラハから遠く離れたモラヴィアの古城に閉じ込められてしまったのです。
『スラヴ叙事詩』が完成した1928年頃は、独立直後の混乱も落ち着いてチェコの歴史で最も幸せな時期でした。幸せのただ中では「未来の希望」のメッセージなど無意味であり、いまさら耳を傾ける必要などまったくないと思われていた時代だったのです。
しかし、その後のチェコスロヴァキア共和国は、独立後わずか20年でナチスドイツに解体されて占領され、第2次大戦後もソ連の共産党支配体制に組み込まれてふたたび主権をとり戻すのはミュシャ没後50年の1989年になってからのことでした。さらにそのあとも、ようやく一つの国家となったスロヴァキアとも自由化後わずか3年余りで"協議離婚"するなど混乱は続きます。
死してなお語る
「時代遅れ」の忘れられかけた作品でしたが、20世紀の戦争と核の脅威、21世紀もテロと経済不況、気候変動など、先の見えない不安の歴史をくぐって 『スラヴ叙事詩』 のメッセージは、チェコ国民だけでなく、人類に普遍のものとようやく見なおされつつあり、世界中で再評価がはじまっています。
画家は彼が生きた時代のために作品を制作します。しかし優れた芸術は、時代を超越してメッセージを語り続けます。ミュシャの眠るヴィシェフラッド墓地スラヴィーン廟には「彼ら死すとも なお語る」という言葉が刻まれているとおり、『スラヴ叙事詩』はミュシャがまさにそのような芸術家であることをわれわれに知らせてくれます。
愛と叡知
ミュシャはなぜ『スラヴ叙事詩』を描かなければならなかったのか。ミュシャの心のうちをたずね、そのうえでもういちどミュシャ・スタイルの美しいポスターや装飾パネルを見てください。きっと新しいミュシャの世界が開けるでしょう。
『スラヴ叙事詩』を発表した後、『ヴィート大聖堂のステンンドグラス』はじめ、「愛」、「人類の理性と叡知」に向きあう次の歩みへミュシャは進みはじめました。『スラヴ叙事詩』は最終到達点ではなく、さらにその先の計画を進めていましたが、生涯を一貫する「ミュシャのメッセージ」という意味でもやはり『スラヴ叙事詩』はライフワークと位置づけることができます。
(各作品の画像と解説はサムネイルをクリックすると見られます。一部工事進行中です)
スラヴ叙事詩
チャールズ クレイン (1858-1939)
『スラヴ叙事詩』 制作の資金を提供した
左 チェコの歴史家 F.パラツキー
中 作曲家 B.スメタナ
右 歴史文学者 A.イラーセク
チェコの切手から
Click ! 『スラヴ叙事詩』 各作品のくわしい解説は 画像をクリックして各作品のページをご覧ください。
初めてのスラヴ叙事詩展カタログ
(1919)
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完成後最初のスラヴ叙事詩展カタログ (左) と
ミュシャによる作品解説 (右下) (1928)
『スラヴ叙事詩展のポスター』
プラハ展 1928年 (左)、ブルノ展 1930年 (右)
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日本ではじめての 『スラヴ叙事詩』 展示の様子。1989年(左)、1996年(中、右)