チェコ時代
切手にも「歌う鳥 pěvecké」を描いている。クロウタドリではないが声の美しい鳥。羽根のデザインをモラヴィアの紋章(右)と同じ赤白の市松模様(チェック)にして「モラヴィア」を表現している。髪に飾るヒナギクもモラヴィアの象徴。
左 「モラヴィア教師合唱団 創立60周年記念」切手 チェコスロヴァキア(1963年)
音楽にちなむミュシャのポスターいろいろ 左から『受難』、『ズデンカ・チェルニー』、『プラハ 歌と音楽の春の祭典』、『トーキー・フィルム』
『モナコ・モンテカルロ』
1897年
10代のミュシャが聖歌隊で歌っていたブルノの聖ペテロ聖パウロ教会(通称ペトロフ)。左から、外観、内陣、2階聖歌隊席(オルガンの前)。
「歩く前から描いていた」といわれるミュシャは、少年時代には音楽の才能が注目されていた。家庭が裕福でなく兄弟も多かったため、イヴァンチッツェの音楽教師の薦めで、ブルノで修道院聖歌隊の給費生となってギムナジウム(大学進学前の中等教育学校)に進学する道を選んだ。
しかし、修道院(聖母被昇天教会。旧ブルノ修道院と呼ばれる。)に着いた時、給費生の枠がすでに満員だったため、かわりに聖ペテロ聖パウロ教会(ペトロフ)の聖歌隊給費生に推薦され、ギムナジウム(後輩に、作家のカレル・チャペック
Karel Čapek 1890-1938がいる)に通いながら毎日聖歌隊で歌う生活を送った。
ブルノの数年間は必ずしも充実していたとはいえないが、ミュシャを形成するあらゆる面で決定的な影響を与えている。「私が生涯愛したのは、絵画と教会と音楽」とミュシャ自身が語っているとおり、少年期に聖歌隊でポリフォニー音楽を学んだことは、ミュシャの作品を理解するうえでも、彼の感性や生き方を考えるにも重要な意味を持っている。
ブルノでは、6才年上で修道院聖歌隊の指導助手を務めていたヤナーチェクとも知り合い、2人の交流は終生にわたった。現在、ブルノ市内には、世界的な芸術家となった2人を記念して、ミュシャの名は「通り」に、ヤナーチェクは「広場」に、それぞれの名前がつけられている。(ヤナーチェクの名は、劇場、音楽院にもつけられている)
ミュシャがいた頃の旧ブルノ修道院院長は「メンデルの法則」で有名なメンデル(Gregor Johann Mendel 1822-1884)だった。「エンドウ豆の研究」はすでに終えていて、修道院院長に専念していたが、ともにブルノの中心的教会のペトロフと旧ブルノ修道院(聖母被昇天教会)は関係が深く、共に活動する機会が多かったので、ヤナーチェクはもちろん、ミュシャもメンデル院長と挨拶を交わすほどのことはあっただろう。
左 聖ペテロ聖パウロ教会(ペトロフ) チェコの普通切手 (1994年)
右上 聖母被昇天教会(旧ブルノ修道院)の切手 (2004年)
右下 「メンデルの法則発表100年」記念切手 (1965年)
レオシュ・ヤナーチェク
1854-1928
チェコスロヴァキアの切手
モラヴィア教師合唱団