ポスター へ
生涯 愛した音楽
 「私が生涯愛したのは美術と音楽と教会である」という言葉を残しているミュシャは音楽のポスターをいくつもデザインしています。
教師合唱団
 1903年に誕生したモラヴィア教師合唱団の最初のメンバーはクロムニェジージュ師範学校の卒業生たちでした。男声を中心にした混声合唱団で、ヨーロッパではヤナーチェクなどチェコの現代作曲家の作品を積極的に取り上げていることでよく知られています。 
クロウタドリ
 民俗衣装の少女は耳に手をかざしていて小鳥とともに音楽を連想させます。上を向いてさえずる小鳥と少女の手には「モナコ・モンテカルロ」のポーズと同様、見る人の注意をポスターのタイトルへみちびくデザイン効果があります。
 この小鳥はクロウタドリといってヨーロッパ各地で普通に見られる声の美しい鳥です
ウィキペディアからクロウタドリの美しい鳴き声を聞くことができます。日本のウグイスのように春を告げる鳥とされているところもあります。
 ポスター・タイトルの最初にある "pěvecké"
(pěvec)という言葉はチェコ語で"合唱団"という意味と同時にクロウタドリやウグイスなど歌う鳥"pěvec"をさしています。
ヤナーチェクも
 10代半ばまでミュシャはむしろ音楽の才能で周囲から注目されていました。モラヴィアの中心都市ブルノの中学生時代は教会の聖歌隊で歌って学費を得ていましたが、そこの聖歌隊には6才年上のヤナーチェク
Leoš Janáček1854-1928)がいました。後にチェコを代表する世界的な芸術家となった2人の親交は1928年にヤナーチェクが亡くなるまで続きました。
モラヴィア教師合唱団

モラヴィア教師合唱団

音楽にちなむミュシャのポスターいろいろ
左から 「受難」、「ズデンカ・チェルニー」、「プラハ 歌と音楽の春の祭典」、「トーキー・フィルム」

モナコ・モンテカルロ
1897年

レオシュ・ヤナーチェク
1854-1928
チェコスロヴァキアの切手

リトグラフ  1911年

チェコ時代

Click !
Click !

もどる




ポスター へ

クロウタドリ

ヤナーチェク

スラヴ叙事詩 入口

ヒヤシンス姫

スラヴ叙事詩

モラヴィア教師合唱団

ブルノの南西モラヴィア宝くじ

イヴァンチッツェノ地方展

チェコスロヴァキア YWCA

ロシア復興

第6回ソコル大会

ヴルタヴァの野外劇

1918-1928

フォノフィルム

スラヴ叙事詩展

プラハ聖ヴィタ大聖堂のステンドグラス

 10代のミュシャが聖歌隊で歌っていたブルノの聖ペテロ聖パウロ教会(通称ペトロフ)。左から、外観、内陣、2階聖歌隊席(オルガンの前)。

 「歩く前から描いていた」といわれるミュシャは、少年時代には音楽の才能が注目されていた。家庭が裕福でなかったため、イヴァンチッツェの音楽教師の薦めで、ブルノで修道院聖歌隊の給費生となってギムナジウム(大学進学前の中等教育学校)に進学する道を選んだ。
 しかし、修道院(聖母被昇天教会。旧ブルノ修道院と呼ばれる。)に着いた時、給費生の枠がすでに満員だったため、かわりに聖ペテロ聖パウロ教会(ペトロフ)の聖歌隊給費生に推薦され、ギムナジウム(後輩に、作家のカレル・チャペック Karel Čapek 1890-1938がいる)に通いながら毎日聖歌隊で歌う生活を送った。
 ブルノの数年間は必ずしも充実していたとはいえないが、ミュシャを形成するあらゆる面で決定的な影響を与えている。「私が生涯愛したのは、絵画と教会と音楽」とミュシャ自身が語っているとおり、少年期に聖歌隊でポリフォニー音楽を学んだことは、ミュシャの作品を理解するうえでも、彼の感性や生き方を考えるにも重要な意味を持っている。
 ブルノでは、6才年上で修道院聖歌隊の指導助手を務めていたヤナーチェクとも知り合い、2人の交流は終生にわたった。現在、ブルノ市内には、世界的な芸術家となった2人を記念して、ミュシャの名は"通り"に、ヤナーチェクは"広場"に、それぞれの名前がつけられている。
 ミュシャがいた頃の旧ブルノ修道院院長は「メンデルの法則」で有名なメンデル(Gregor Johann Mendel 1822-1884)
だった。"エンドウ豆の研究"はすでに終えていて、修道院院長に専念していたが、ともにブルノの中心的教会のペトロフと旧ブルノ修道院(聖母被昇天教会)は関係が深く、共に活動する機会が多かったので、ヤナーチェクはもちろん、ミュシャもメンデル院長と挨拶を交わすほどのことはあっただろう。

左   聖ペテロ聖パウロ教会(ペトロフ) チェコの普通切手 (1994年)
右上 聖母被昇天教会(旧ブルノ修道院)の切手 (2004年)
右下 「メンデルの法則発表100年」記念切手 (1965年)