新しい時代の女性に
チェコスロヴァキアは、300年の苦難の時を経て、1918年に独立しました。独立にいたる道を開き、国民を導いた哲学者トマシュ・マサリクが初代大統領に就任しました。
マサリクの娘アリツェ(アリス Alice Masaryková 1879-1966)は、シカゴ大学在学中 YWCA(Yong Wemen's Christian Association キリスト教女子青年会)の寮で生活していたことがあり、新生チェコスロヴァキア女性の啓蒙のために、プラハにYWCAの支部を作ろうと考えました。(アリツェはプラハ・カレル大学に最初に入学した女性の一人であり、独立後はチェコスロヴァキア赤十字の総裁もつとめた。)
心をこめて
アリツェの募金活動が実を結んで、プラハ支部は1920年にオープンしました。ミュシャのポスターは、会員の募集と共に、チェコスロヴァキア各地に少女のための宿泊施設を建設する基金を募るためのものです。アリツェとYWCAの精神に賛同していたミュシャは、心を込めてこのポスターをデザインしました。国民の理解を得るため、ポスターには純潔で洗練された若い女性を描き、ステンシル(色づけする部分を切り抜いた型を用いて彩色する。ポショワールともいい、日本の「合羽摺り」、「大津絵」に似た版画技法。)で彩色しています。
偶然
YWCAの活動はチェコ各地に普及し、モラヴィアの中心地ブルノでも、市役所近くに新しくできた建物「バラッツヤルタ Palac Jalta」に支部が置かれました。
少年期のミュシャはブルノのギムナジウム(大学進学前の中等教育学校)に通っていましたが、下宿があった街ブロックが1920年代に再開発され、そこに建ったのがパラッツヤルタでした。オフィス、住宅、映画館などが入る斬新な構造の建物で「20世紀のヨーロッパ歴史的建築」にも登録されています。
バラッツヤルタの建築家ヤロスラフ・ポリーフカはミュシャと親しく、家族ぐるみのつきあいがありました。ポリーフカのためにミュシャは蔵書票をデザインしています。
偶然とはいえ興味深いつながりです。
闇から光へ
ミュシャは「女性」、「花」を、装飾のために描く画家ではない。ミュシャの女性の多くは「チェヒア」や「スラヴィア」であり、「未来の希望」を象徴する。
「チェヒア」とは、「チェコを象徴するお母さん」で、スラヴィアと同じく「希望」を象徴するが、スラヴの理想、理念をあらわす「スラヴィア」が、スラヴ菩提樹の葉を頭に飾っているのに対し、「チェヒア」はヒナギクを飾ることが多く、「光へ」というメッセージを伝える。
『ブルックリン美術館のミュシャ展ポスター』
『チェコスロヴァキアYWCA』
ポスターのデッサン
『スラヴ叙事詩展ポスター』
(部分)
『チェコの心』
『サロンデサンでのミュシャ展
ポスター』
(部分)
日本YWCAのロゴマーク
チェコYWCAの沿革
アリツェ・マサリコヴァー
Alice Masaryková 1879-1966