ミュシャの死を伝えるチェコの新聞

 アルフォンス・ミュシャ1939年7月14日、プラハ市ブベネチの自宅で亡くなりました。79才の誕生日10日前でした。
 亡くなる4ヶ月前の1939年3月にナチス・ドイツがプラハに侵攻してチェコを併合、祖国愛を表現する作品を描いていたミュシャは危険視されてゲシュタポに逮捕拘留され厳しい尋問を受けました。数日で釈放されたものの高齢のうえ前年に肺炎を患っていたミュシャは健康を害して7月に亡くなりました。
 ミュシャの遺体はドヴォルザークやスメタナ、チャペック兄弟はじめチェコ最高の芸術家、文化人が眠るヴィシェフラッド国民墓地の、その中でも特別なスラヴィーン霊廟に葬られました。ナチス占領下で市民の集会は禁止されていましたがミュシャの葬儀は自然にナチスに対する抗議集会のようになり、ミュシャはチェコの人々の心の支えになりました。
 ミュシャが晩年住んでいたプラハのブベネチにはミュシャの名前をつけた通りがあります。

スラヴ叙事詩

 ヴィシェフラッドはリブシェ伝説の地です。チェコ最初のプジェミスル王朝とプラハの栄光を示した予言者リブシェの城跡とされ、チェコ国民の魂の故郷です。
 19世紀の民族主義の高まりとともに枢機卿で詩人のシュトゥルツ
(Václav Svatopluk Štulc 1814-1887)の発案でヴィシェフラッドにチェコの民族墓地を定めました。ここにはミュシャをはじめチェコ国民にとって大切な芸術家たちが眠っています。日本人がよく知っているドヴォジャーク (ドヴォルザーク)、スメタナ、チャペック兄弟の墓もヴィシェフラッドにあります。

ヴィシェフラッド国民墓地
「予言者 リブシェ」 マシェック
セドラチコヴァー
チェフ
ネドヴァル
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ラファエル・クベリーク
(クーベリック)
1914 - 1996

ヤン・クベリーク
(クーベリック)
1880 - 1940

ミコラーシュ・アレシュ
1852 - 1913

カレル・チャペック
1890 - 1938

アントニーン・ドヴォジャーク
(ドヴォルザーク)
1841-1904

彫刻家。記念碑的彫刻を数多く残している。プラハ旧市街広場のヤン・フスの像が有名。この像はフス処刑500年を記念して1915年に建立された。(写真は「ヤン・フス像」)

建築家。プラハ・ヴァツラフ広場正面の国立博物館はシュルツが設計した建築。
国民劇場、芸術家の家をジーテク(Josef Žítek 1832-1909)と共作した。(写真は国立博物館)

ヨゼフ・シュルツ
1840 - 1917

ラディスラフ・シャロウン
1870 - 1946

アントニーン・ヴィール
1846 - 1910

建築家。スラヴィーン霊廟の設計者。(棺に寄り添う「天才」の寓意像は彫刻家マンデル Josef Mander 1854-1920)
現在スメタナ博物館になっている、カレル橋のわきの旧市街給水塔もヴィールの設計。

20世紀前半の伝説的な名ヴァイオリニスト。美しい音色と超絶的な技巧で世界を魅了したといわれる。作曲家でもある。アメリカでミュシャと交流があった。ラファエル・クベリークの父。

20世紀後半の代表的指揮者、プラハの春音楽祭の創設者。ヤン・クベリークの長男。チェコが共産党支配になり国外に亡命。シカゴ、ミュンヘンで活躍した。1990年、自由化後初めてのプラハの春音楽祭に42年ぶりに祖国に戻って「わが祖国」を指揮した。その時の名演奏CDとともにドキュメンタリービデオがある。ミュシャの子息イジー・ムハとも交友があった。

作家。幅広い文筆活動が日本でも親しまれている。「ロボット」の造語で知られる。「長い長いお医者さんの話」や「ダーシェンカ」、「園芸家12ヶ月」、「山椒魚戦争」など、童話、随筆、紀行文がある。ブルノのギムナジウムでミュシャの後輩。お互いの晩年に短い間の交流があった。

作曲家。交響曲「新世界」、「スラヴ舞曲」、「ユーモレスク」などが世界中で親しまれている。メロディ作曲の才能はブラームスがうらやんだほど。(シャロウン制作の墓碑彫刻)

ミュシャと同時代のチェコ画壇の中心画家。国民劇場ホワイエの「祖国」連作で知られる。1902年のロダン展にロダンとミュシャを招いた。(挿絵から)

 ミュシャと同じ墓碑に名前が刻まれているのはヤン・クベリーク(クーベリック) とラファエル・クベリク(クーベリック) 父子。父親でヴァイオリニストのヤンはミュシャと、指揮者のラファエルはミュシャの息子イジーと交友がありました。

ミュシャの死を伝える新聞
1939年7月15日付
クリックで日本語訳
ヴィシェフラッド墓地 スラヴィーン霊廟
「リブシェ」 (1917年)
プラハ国立美術館
「予言者 リブシェ」(1893年)
マシェック(Karel Vítězslav Mašek)
オルセ美術館

作曲家。日本では「モルダウ」がよく知られている。連作交響詩「わが祖国」でチェコ国民に歴史と向き合い方を示唆した。ミュシャ、イラーセクとともにチェコで最も大切な芸術家。プラハの春音楽祭はスメタナの命日5月12日に「わが祖国」をスメタナ・ホールで演奏して幕を開ける。

作家。「おばあさん」、「十二の月たち」など、昔話やおとぎ話の形でチェコの心を民衆の言葉で描いた。散文のボヘミア文学創始者。

指揮者。アウシュビッツから奇跡的に生還してクベリーク亡命後のチェコ音楽界を支えた。彼の指揮ではすべての音楽が今その瞬間にそこで生まれていると感じさせる鮮烈な名演だった。1968年のプラハの春後のソ連侵攻のときアメリカ演奏旅行中だったため祖国に戻れないまま1973年にカナダで客死した。

詩人。チェコ民衆の姿を暖かい詩情で表現した。プラハ城からカレル橋に至るネルーダ通りに彼の名がつけられている。
チリのノーベル賞作家パブロ・ネルーダは尊敬するネルーダの名前をペンネームにした。

彫刻家。ヴァツラフ広場にある聖ヴァツラフ像がもっとも有名。チェコの歴史や伝説を語る記念碑的彫刻が各地にある。
ヴィシェフラッドの墓地に隣接するところにもリブシェ王女、シャールカなどチェコ史人物の彫刻作品がある。
(写真は「聖ヴァツラフ像」)

ヨゼフ・ミスルベク
1848 - 1922

ヤン・ネルーダ
1834 - 1891

ヴォジェナ・ニェムツォヴァー
1820 - 1862

ベドジフ・スメタナ
1824 - 1884

カレル・アンチェル
1908 - 1973

女優。「ヒヤシンス姫」を演じ、ミュシャのポスターのモデルになった。チェコの国民的舞台女優でヨーロッパで最初の映画女優になった。

小説家、詩人。 ミュシャ最初の挿絵本「アダミテ」の作者ヤナーチェクのオペラ「ブロウチェク氏の月と15世紀への旅」原作者。
ヴルタヴァ(モルダウ)川の橋のひとつに彼の名がつけられている。

作曲家、指揮者。「ヒヤシンス姫」を作曲した国民的音楽家。草創期のチェコフィルハーモニーに尽力した。 

パリでミュシャと交流のあったチェコの画家。国民劇場の壁画「パリスの審判」を描いた。(「春」から。切手)

グラフィック画家。ミュシャの葬儀では弔辞を読んだ。ミュシャ生誕100年記念の肖像切手をはじめ。切手の原画デザインを数多く手がけている。

ヴォイチェフ・ヒナイス
1854 - 1925

マックス・シュヴァビンスキー
1873 - 1962

オスカー・ネドバル
1874 - 1930

アンドゥラ・セドラチコヴァー
1887 - 1967

スヴァトプルク・チェフ
1846 - 1908

ミュシャの墓碑(左)とヴィシェフラッド墓地スラヴィーン霊廟 (右)
スラヴィーン霊廟正面の墓碑には「彼ら死すともなお語る」という言葉が刻まれています。
ミュシャの墓碑