セニョボス(Charles Seignobos 1854-1942)
 『ドイツ史 ―歴史の場面とエピソード―』は、フランス人のためにフランスの歴史家がフランス語で書いた「ドイツの歴史」です。
 著者のシャルル・セニョボスは、フランス社会がより成熟するために歴史学、歴史教育がどのように貢献できるかを実証主義歴史学の立場から追求しました。
 さまざまな国の歴史の具体的なエピソードから社会の正確な認識をもち、現在の社会との比較を通して多様性の概念を育てる。そして社会に変化をもたらした事件や革命から社会がどのようなことを契機として急激にあるいはゆっくりと変化するかを知って社会に対して受身だったり無関心でいるのではなく、変化の認識を持つことによって社会の進化をもたらすことができるようになり、急激な変化にも正しく対応できるようになる。そのために必要な批判力は対立する立場から同一の歴史事実を見たり、異なる逸話や伝説の比較、歴史と伝説の違いなどを通して養うことができると考えていました。
 「歴史の場面」と「エピソード」で表した『ドイツ史』はそのような背景から著したセニョボスの歴史書のひとつです。

ロシュグロス(Georges Antoine Rochegrosse 1859–1938)
 挿絵を担当したミュシャとジョルジュ・ロシュグロスは同年代です。しかし1882年にパリのサロンにデビューしてすでに名声を得ていたロシュグロスと無名の「かけだし」だったミュシャとは全く異なる立場でした。とはいえ共にブーランジェのもとで学び挿絵画家のギュスターヴ・ドレを尊敬していた二人の仲はよいものでした。
 『ドイツ史』の仕事を進めるうちに当初半々の分担予定だったものが8割をミュシャが描くようになってもミュシャのロシュグロスへの敬愛は変わらず、のちの作品、特に『スラヴ叙事詩』にはロシュグロスの影響があちこちに見られます。

ドイツの歴史
 セニョボスの『ドイツ史』は、ローマ帝国史にゲルマン人が登場する西暦9年から 19世紀のゲーテとシラーまでの「ドイツの歴史エピソード」をとりあげています。そのうちの大半が「神聖ローマ帝国」の時代です。
 ミュシャ
(ムハ)は今ではチェコの画家となっていますが、当時のチェコ(ボヘミア、モラヴィア)はハプスブルク家が支配するオーストリア帝国に属していおり、ハプスブルク家はながく神聖ローマ帝国皇帝の地位にありました。「ドイツ史」挿絵の依頼にはじめは抵抗があったミュシャですが、挿絵の場面をどう選ぶかはミュシャにまかせるというアルマン・コラン出版社の意向をえて引き受けることにしました。『ドイツ史』の「場面」の多くは祖国チェコと深くかかわるエピソードだったり、チェコの歴史そのものでもあったのでチェコの歴史を広く伝える機会と考えたからです。
 「芸術家本来のつとめとして祖国に貢献する」というミュシャの願いはまだ漠然としていたウィーン時代から境遇の変遷とともにより具体的な構想へ育ちます。セニョボスの『ドイツ史』挿絵制作はミュシャの意識を明確にさせるとともに歴史の方法論を得ることになり、1900年パリ万博の『ボスニア・チクルス』を経て『スラヴ叙事詩』につながる仕事となりました。
 『スラヴ叙事詩』が、クライマックスの場面ではなくチェコの社会に変化をもたらすきっかけとなったシーンを描いているのは、セニョボスの『ドイツ史』挿絵の経験が影響しています。『ドイツ史』の挿絵を手がける機会がなければ『スラヴ叙事詩』は現在の形にはならなかった、あるいは『スラヴ叙事詩』を描くこともなかったかもしれません。

Scènes et Épisodes de l'Histoire de Allemagne, 1896年
ドイツ史
―歴史の場面とエピソード―
シャルル・セニョボス Charles Seignobos(1854-1942)著

スラヴ叙事詩

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ここでは各ページの挿絵は小さい画像ですが、大きい画像は「挿絵と表紙」から入って"ドイツ史"のサムネイルをクリックすると見られます。

ロシュグロス

ロシュグロス

ミュシャ

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