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挿絵と表紙
やむを得ず
「画家ミュシャ」は挿絵からはじまりました。1890年1月、パリで勉強していたところ、伯爵からの援助が突然打ち切られて生活のために挿絵や雑誌の表紙を描くようになりました。
やむを得ずにはじめた仕事ですが、1年もしないうちにパリやプラハの出版界で注目を集め、挿絵画家としてはギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Doré 1832-1883) と同等の評価がなされるようになりました。
19世紀末はそれまで挿絵の主流だった銅版画が急速に写真にとってかわられる時代でしたが、ミュシャの挿絵の多くは15、6世紀に盛んだった木口木版画で制作されています。
『ドイツの歴史』(C.セニョボス 著)では、新進のミュシャが当時フランス最高とされていた挿絵画家G. ロシュグロス(Georges-Antoine Rochegrosse 1859-1938)とともに挿絵を描きました。しかし刊行された本を実際に手に取るとミュシャの挿絵がロシュグロスをはるかにしのいでいます。
ドラマチックな
ミュシャの挿絵は、卓越したデッサン力とともに群像表現がとくにすぐれています。緊張感のある画面には、ちょうどシェイクスピアの舞台に登場する人物のように、端役にいたるまで1人1人の人物が生き生きと克明に描かれていながら全体の画面構成が見事で、物語のクライマックスをドラマチックに描いています。挿絵の表現にはチェコの伝統に立つ表現に加えて、ウィーン時代から関心を持っていたブルクマイヤー(Hans Burgkmair der Ältere,1473-1531)などキアロスクーロ版画・素描の影響、舞台美術制作経験の反映が見られます。
感謝
ミュシャの挿絵が注目される機会はこれまであまり多くはありませんでした。しかし後のポスターの成功も大画面で構成する 『スラヴ叙事詩』 もミュシャの画業のすべては挿絵画家の経験なくしてありえません。挿絵はミュシャを決定づける重要な仕事だったのです。
挿絵のきっかけは伯爵の支援が途絶えたためでした。援助の打ち切りに一時的には絶望しましたが、すぐに伯爵の意図を理解して自分の道を歩み始めます。
ミュシャは『スラヴ叙事詩』制作中にも何度かガンデグ城を訪れて歓談し、感謝を伝えています。
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