スメタナの 『わが祖国』 第1曲 『ヴィシェフラッド』は、中世の吟遊詩人ルミールを表わすハープの音で始まります。 ミュシャもルミールを繰り返し描いていて
『スラヴ菩提樹の下で宣誓する青年たち』 のハープを弾く少女もルミールを表わしています。
『スラヴ叙事詩』 の構成には 『わが祖国』と共通するところがたくさんありますが、ルミールもそのひとつです。
ルミール
『スラヴ叙事詩展のカタログ』
『スラヴ叙事詩展のポスター』
ミュシャの娘ヤロスラヴァは1909年にニューヨークで生まれました。『スラヴ叙事詩』制作の資金を得ようと、ミュシャがアメリカに拠点を移していた時期でした。ヤロスラヴァが誕生した年の暮れにようやく計画実現の目途がたち、翌1910年に一家はプラハの西にあるズビロフに移ります。
父の仕事を間近に見ながら、時に作品のモデルになり、時に父の制作を子どもなりに手伝って育ちました。成長してヤロスラヴァが絵画修復の専門家になったのは、そのような環境で育ったことが背景にあったのでしょう。
第二次大戦中に、ナチスドイツの略奪から守るため急いで隠して、ダメージを受けてしまった『スラヴ叙事詩』を戦後になって修復する際、ヤロスラヴァは大きな役割を果たしました。
ヤロスラヴァは1986年11月に亡くなりました。折しも1989年の「ミュシャ没後50年記念展」に日本で初めて『スラヴ叙事詩』を公開する契約を見届けるようにして眠りについたのです。彼女の生涯は『スラヴ叙事詩』とともにあったといえるでしょう。今は母のマルシュカと同じ墓で安らかに眠っています。
雑誌『ルミール』 のタイトル
『スラヴ菩提樹の下で宣誓する青年たち』から
野外劇 『スラヴの兄弟たち』 のコンテから 1926年
『ルミールとニンフ』(部分) 1882年
『スラヴ叙事詩』のデッサンのための写真
モデルは娘ヤロスラヴァ (ズビロフのアトリエで)