ブルガリアのシメオン皇帝

シメオンの父ボリス王(右)と妻(左)

『モラヴィア国のスラヴ語礼拝式導入』
 
― 『スラヴ叙事詩』 ―

ボリス王
 キリル文字を定めスラヴ文化の開花に貢献したのはシメオン1世
(863頃-927)です。しかしメトジェイの弟子たちをブルガリアに受け入れたのはシメオンの父ボリス王(?-907、在位852-889)でした。
 ボリスはブルガール人とスラヴ人の融和を進め、ビザンツとローマ、東西教会の対立を利用してブルガリアの地位向上を図るなど、シメオン王政繁栄の基礎を築きました。
 889年に長男のウラディミールに位を譲り修道院に入りますが、反教会的なウラディミールを廃位して第三子シメオンを王位につけました。
イーゴリ公とオルガ
 右の二人はキエフ・ルーシ公イーゴリ1世
(在位912-945)とその妻オルガ(?-969)です。
 スラヴ原故郷に北欧ヴァイキング
の一部が侵入して、アヴァールに連れ去られたあとに残っていたスラヴ人を取り込んで建国しました("ルーシ"は、もともとはスウェーデンのノルマン人、あるいはヴァリャーグ人が自分たちを指す呼称だった)
 交易にたけた二代目首長のイーゴリは、ドニエプル川流域とビザンツ帝国を経済で結んでいましたが殺され、かたきを討った妻のオルガが息子スヴャトスラフを補佐してキエフを隆盛にするとともにキリスト教を受け入れて周辺国と良好な関係を築き、キエフ・ルーシ
(キエフ公国)の地位も文化も高めました。(キリスト教会ではオルガは最初に洗礼を受けたスラヴ人とされている。"イーゴリ"も"オルガ"もゲルマン系の名前。三代目のスヴャトスラフからはスラヴ系の名前)
 キエフ・ルーシはモンゴルの侵攻によって1240年に崩壊消滅しました。キエフ・ルーシの東北部に領土を持つ諸侯が独立して後のモスクワ公国のもとになったとされ、ロシア正教会の母体はキエフ・ルーシのキリスト教会です。

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キエフ・ルーシのイーゴリ公(左)と妻の聖オルガ(右)