ヤン・アモス・コメンスキー
民族の教師 ヤン・アーモス・コメンスキー  ― 希望の光 ―
テンペラと油彩  1918年  405×620 cm

ヴィトコフの戦の後

知識の共有
 名前は知らなくても、あなたも
みんな コメンスキー (1592-1670) のおかげで大きくなりました。 それは学校教育です。 同じ年齢の人が一緒に入学して同じ教科を学び一緒に卒業するという 誰もが当たり前と思っている学校教育の仕組みは、すべての人が知識を共有するために コメンスキーが考えだしたものです。
 コメンスキーは知識の共有が戦争を終わらせ ヨーロッパをひとつにすると考えていました。 その考えは現代ではユネスコの根本思想となっています。
出産前から高齢者まで
 学校教育だけでなく、コメンスキーは 出産前の母親教育から 死と向き合うための高齢者の心の準備まで生涯にわたる教育全般を体系的に論じました。 世界で最初の子どものための絵入り百科事典 「世界図絵」 や 「大教授法」 などの著書
(著者名のコメニウスはラテン語名) でも知られています。 “知の迷宮” “迷宮美術館 (NHKの番組)” など複雑で生き生きとした知的探求の魅力を指す“迷宮”も、始まりはクノッソスの迷宮ですが、コメンスキーの代表作 「世界の迷宮」 によって誰もが知る言葉になりました。
希望の光
 コメンスキーは、もちろん比類のない天才ですが、彼の知性と平和の希求は、戦争の悲惨とチェコ兄弟団
(スラヴ叙事詩 「イヴァンチッツェのモラヴィア兄弟団学校」 参照) の高い教育によって育てられました。 そして彼は非カトリック教徒追放令 (1627年) にはじまる自身の亡命流浪の苦難の中、政治も文化も信仰も 国民の権利のことごとくを剥奪され悲惨な状況にある祖国チェコに向かって“希望”を語り続けたのです。  

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