言い伝えでは、ヤン・ジシュカは「グリュンヴァルトの戦い(1410年 ドイツではタンネンベルクの戦いという)で片目を失い、さらに1421年にラビー城の戦いで矢で射られて残っていた片目も失って全盲のまま軍を指揮し続けた」とされ、肖像は黒い眼帯の姿で描かれています。
ミュシャの描くジシュカにも眼帯があります。しかし、『プラハ市民会館壁画』と『スラヴ叙事詩』の『ベツレヘム教会でのヤン・フスの説教』のジシュカは右目なのに『ヴィトコフの戦いの後』では左目に眼帯をかけています。どうしたことでしょう?
ジシュカはどちらの目を失っていたのでしょう。
ジシュカは1424年に亡くなりますが彼を恐れていたカトリック教会は民衆の記憶からヤン・ジシュカを消し去るために墓や遺物をことごとく破壊しました。
20世紀になって、ジシュカの墓があったと伝えられる場所から頭蓋骨を含む遺骨が発掘され、1966年の調査でこの人物が幼い頃に左目を失明しており、右目には矢らしいもので射られて引き抜いた痕が確認されました。
ジシュカが"子どもの頃に遊びで失明した"とする記述 (『シルヴィウスのボヘミア史』) に符合し、ジシュカの遺骨に間違いないとほぼ定説になっています。
これが正しければ、ヤン・ジシュカはすでにグリュンヴァルトの戦いの前の幼い頃に片目を失明していて左目に眼帯をかけているのが正しいということになります。
ミュシャがスラヴ叙事詩や市民会館の壁画を描いた当時は遺骨が発見されて話題にはなったものの、ジシュカの遺骨とは確認されていませんでした。ミュシャは伝説やイラーセクの記述などによってジシュカの姿を描いたと想像されます。
ジシュカはモラヴィア遠征中の1424年にペストにかかって死んだといわれていましたが、ヨーロッパでペストが猛威をふるったのは主に14世紀なので、ジシュカはペストではなく腫れ物の病気で亡くなったことが今ではわかっています。
ヤン・ジシュカ 1374-1424
紙幣に描かれた、進軍するフス派の兵士たち
ピシュチャラを持ち、馬に乗っているのがヤン・ジシュカ
ヤン・ジシュカの肖像を図柄にしたチェコスロヴァキアの20コルナ紙幣
表(上)、裏(下)
プラハ市民会館壁画 ポストカードから