画家の息子
『スラヴ菩提樹の下で宣誓する青年たち』にはミュシャの娘ヤロスラヴァとともに息子イジー(ミュシャ Jiří Mucha 1915-1991)が描かれています。
今日、私たちがアルフォンス・ミュシャの作品を楽しむことができるのはイジー・ムハの研究と収集のおかげです。たびたび来日し、ミュシャ・コレクターの土居君雄さん(1926-1990)と協力してミュシャの普及につとめました。土居君雄コレクションの充実も日本でこれほどミュシャが知られるようになったのも、イジー・ムハと土居君雄さんの活動のたまものです。
ジャーナリスト、作家、詩人、さらに
1915年にプラハで生まれたイジーは、『スラヴ叙事詩』アトリエのズビロフで父の制作を見ながら育ちます。ミュシャは息子が画家になることを望んで絵筆を持たせた写真を撮り、油彩の肖像画も描いています。しかし絵画よりも文筆に才能があったイジーはパリでジャーナリストとして活躍をはじめます。
第二次大戦中はロンドンでBBC(英国放送協会)の報道員また空軍将校の立場でチェコスロヴァキア亡命政府に協力していました。戦後はプラハに戻り母マルシュカ(Maruska Muchová 1882-1957)と暮らしていましたが、1948年にチェコスロヴァキアが共産党の一党支配体制になるとイジーのロンドンでの活動に「スパイ行為」との嫌疑がかけられて1951年に投獄されました。スターリンの死後、スターリン批判がチェコにも及んだ1956年にようやく6年間の拘束から釈放されました。
解放後イジーは、投獄前から母とともにはじめていた父の作品の再評価のために出版・収集などの活動に精力を注ぎます。その中で日本人コレクターの土居君雄さんと終生の親交をむすび、土居コレクションの充実に協力するとともに各地でミュシャ展の開催、世界で初めてとなるミュシャ美術館を日本で実現するため土居君雄さんと二人三脚で活動しました。
音楽とともに
父と同じく音楽を愛したイジーには、マルティヌー(Bohuslav Martinu 作曲家 1890-1959)、フィルクシュニー(Rudolf Firksný ピアニスト 1912-1994)、クベリーク(Rafael Kubelík 指揮者 1914-1996)など音楽家たちとの交流がありました。イジーの妻ヴィーチェスラヴァ・カプラロヴァ―(Viteslava Kaprálová 1915-1940)も作曲家、指揮者として嘱目されていました。イジーと同年に生まれたヴィーチェスラヴァは残念なことに結核のため25才で亡くなりましたが、その評価は年を追うごとに高まって彼女の名前を冠した音楽祭やさまざまな活動が世界中にひろがっています。
父とともに
イジー・ムハは土居君雄さんが亡くなった半年後の1991年にプラハで亡くなりました。
詩人、作家としてだけでなくチェコ・ペンクラブ(著作家・ジャーナリスト・編集出版界の国際会議。日本では川端康成、井上靖らが会長をしていた。現在は浅田次郎会長)の会長をつとめ、1989年のビロード革命(チェコスロヴァキアの無血でしなやかな政権移行による自由化)にも寄与するなどチェコ文化に多大な貢献をしたイジーはチェコの著名な文化人が眠るヴィシェフラッド墓地の、父アルフォンス・ミュシャの墓からも近いところに葬られました。
イジー・ムハを記念して没後20年の2011年にイジー・ムハの伝記が出版され、プラハでは没後20年の記念集会がありました。
イジーにはヤルミラ・プロツコヴァー(Jarmila Mucha Plockováá 1950生まれ)というお嬢さんがいます。画家アルフォンス・ミュシャのただ一人の孫です。プラハとバルセロで建築と造形美術を学び、イジーの母マルシュカとそっくりのヤルミラさんはイジーに造形デザイン力を認められ自身の創作活動とともにアルフォンス・ミュシャがデザインだけのこした作品の現実化を続けています。ヤルミラさんには娘さん、つまり画家ミュシャの曾孫にあたる方が2人います。
イジー・ムハと土居君雄さん
ドイフォトギャラリーのミュシャ展会場1983年頃
イジー・ムハの母マルシュカ (左 アルフォンス・ミュシャの妻)
イジーの娘ヤルミラ・プロツコヴァー (右 アルフォンス・ミュシャの孫)