左 ソコル協会 初代会長 インジフ・ヒュグナー
Jindřich Fügner (1822-1865)
右 初代副会長 ミロスラフ・ティルシュ
Miroslav Tyrš (1832-1884)
「新聞用切手」
1918年
左 「スラヴ叙事詩―スラヴ菩提樹の下で宣誓する若者たち(部分)」
右 「プラハ市民会館市長ホール天井画」
"とげのある輪"をデザインしたポスター
「サロン・デ・サンのミュシャ展」 1897年 (右)
「ブルックリン美術館のミュシャ展」 1920年 (左)
ソコル祭典復活記念切手
1994年
プラハ市民会館市長ホール壁画のソコル
「第6回ソコル祭典」ポスター 1912年
ナチス・ドイツ占領時代と社会主義の時代にはソコルの祭典は禁止され、1955年からは共産党支配のもとで「スパルタキアーダ」と呼ぶマスゲームを5年おきに開催した。
自由化後1994年に「ソコルの祭典」は復活し現在は6年ごとに開催している。
スパルタキアード記念切手
1953年
チェコ系市民とドイツ系市民の分断が進む中、"オーストリアからの独立を目指して青少年の身体を鍛えるため"というソコル運動はともすれば政治活動化・軍隊化しがちで外部からも内部でもそのような圧力はあった。
しかしヒュグナーとティルシュの2人は政治化・軍隊化を頑として拒絶した。ヒュグナーには「ハプスブルク王朝の圧政、皇帝、教会への抵抗と反感はチェコの民主主義精神と自由主義精神によるもの」という理念があったからである。
ソコルは体育大会
ソコル協会(1862年創立、当初の名称はプラハ体操協会)が開催する祭典は1882年に第1回大会が行われ4年ごと(1994年復活以降は6年ごと)の開催スタイルなどオリンピックに影響を与えている。日本で今も盛んな"ラジオ体操"もソコル大会から刺激を受けて1928年にはじまった。
ナチス・ドイツ保護領時代と共産党支配下(1948年第11回祭典のあと1989年まで)ではソコル大会は開かれなかったが、反体制の動きを恐れる共産党は1955年から"スパルタキアーダ"と呼ぶ社会主義色の強いマスゲームを党の管理のもと開催した。自由化後の1994年に"ソコル祭典"は復活し現在まで続いている。(復活後は6年ごとの開催)
ソコルは鷹
1912年の「第6回ソコル祭典」ポスター背景の人物はソコルの青年を象徴する。髪が長くて少女のようにも見えるが肩の筋肉で男性とわかる。
両手に掲げている"鷹 タカ"(チェコ語で Sokol ソコル)と 輪はどちらもソコルのシンボルだが"とげのある輪"は輝く太陽を表し、太陽神で希望の象徴のスヴァントヴィト神(古代スラヴの神)を連想させる。
少女にまで届く若者の銀色の長い髪はここではスヴァントヴィトが連れているといわれるこれも太陽の象徴である"金の巻き髪の少女"を暗示し、ポスターを見る人の目を導いて ソコルの若者、鷹(ソコル)、少女、太陽神スヴァントヴィトを結びつける ミュシャ・デザインの要になっている。
太陽を象徴するスヴァントヴィトのシンボルカラーの赤がチェコの栄光の時代を表す色となりソコル協会もスヴァントヴィトの赤、栄光の赤を協会のカラーとした。
ソコルは希望
"ソコル Sokol"はチェコ語で猛禽類の鷹(タカ)を意味する。ソコル協会は若者の体を鍛えることを目的として1862年に結成された体育運動の組織だったが時代とともにオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあるスラヴ諸民族の連帯を促す運動へと変ってきた。タカは鍛えられた若者の勇敢さを、
とげのある輪は太陽をあらわし未来の希望を象徴する。
バラの花束とともに「NI ZISK NI SLÁVU (利益のためでも名声のためでもなく)」という言葉が添えられている1948年
第11回ソコル祭典の切手
戦後初のこの大会では30万人近い参加者があったが、この年にクーデターで政権を奪った共産党政府への反発が顕著だったため共産党はソコルの活動を禁止した。そのためソコル協会は国外で活動せざるを得なくなった。