ブルノから
「歩く前から描いていた」といわれるミュシャですが少年時代にはむしろ歌とヴァイオリン、音楽の才能が注目されていました。裕福な家庭ではなかったため、イヴァンチッツェの音楽教師の薦めでブルノで修道院聖歌隊の給費生となってギムナジウム(大学進学前の中等教育学校)に進学することになりました。しかしブルノ修道院(聖母被昇天教会)に着いた時一足違いで給費生の枠が満員になっていたため、かわりに聖ペテロ聖パウロ教会(ペトロフ)の聖歌隊給費生に推薦されギムナジウム(後輩に、作家のカレル・チャペック Karel Čapek 1890-1938がいる)に通いながら毎日聖歌隊で歌う生活を送りました。
ブルノの数年間はミュシャを形成するあらゆる面で決定的な影響を与えています。「私が生涯愛したのは絵画と教会と音楽」とミュシャ自身が語っているように少年期に聖歌隊でポリフォニー音楽を学んだことは、作品を理解するうえでも彼の感性や生き方を考えるにも大きな意味を持っています。
ブルノでは6才年上で修道院聖歌隊の指導助手を務めていたヤナーチェクとも知り合い、2人の交流は終生にわたりました。現在ブルノ市内には、世界的な芸術家となった2人を記念して、ミュシャの名は"通り"に、ヤナーチェクは"広場"などにそれぞれの名前がつけられています。
ミュシャがいた頃の旧ブルノ修道院院長は「メンデルの法則」で有名なメンデル(Gregor Johann Mendel 1822-1884)でした。すでに"エンドウ豆の研究"は終えていて修道院院長に専念していましたが、ともにブルノの中心的教会のペトロフと旧ブルノ修道院は関係が深く、一緒に活動することが多かったのでヤナーチェクはもちろんミュシャもメンデル院長と挨拶を交わすほどのことはあったかもしれません。
ミュシャが聖歌隊で歌っていたブルノの聖ペテロ聖パウロ教会(通称ペトロフ)。左から、内陣、2階聖歌隊席(オルガンの前)、外観。
ロシア正教会の現総主教(モスクワ総主教)は"キリル1世"を名乗っています。事業家、資産家で、ともにKGBエージェント(スパイ)の経歴を持つプーチン大統領と親しく、聖アトス山に同行して訪れたこともあります。
"キリル"とはキュリロス(827-869 ツィリルはキュリロスのチェコ語読み)のロシア語読みで、ロシアなどで使っている"キリル文字"もキュリロスにちなむ呼び方です。
キュリロスが活動したモラヴィア国とロシアは、スラブ民族が西と東に遠く分断された後、それぞれの土地で別々に成立しました。直接の関係はなく、ロシアにとって"キリル"とのつながりはほとんど"キリル文字"のみといえます(キュリロスが作ったのはグラゴール文字で、"キリル文字"は後の時代にメトジェイの弟子たちがブルガリアでギリシア文字を土台に作った。キエフ・ルーシがビザンツ帝国の東方正教会を受け入れ、キエフ・ルーシ正教会から派生したロシア正教会にもキリル文字が伝わったが、ロシアのキリル文字にはピョートル大帝による改良が加わっているためウクライナ、ブルガリア、ベラルーシのキリル文字とは異なるところがある。)。
"キリル"という名前はロシアで珍しくはありません。しかし、2009年に就任した新総主教(本名 ウラディミール・ミハイロヴィチ・グンジャエフ)が、1100年の空白の後それまでなかった"キリル"を1世として名乗った時、戸惑う声もありました。
聖ツィリルと聖メトジェイを図柄にしたチェコスロヴァキアの切手(左)
ブルノ・ペトルパウロ教会の聖ペテロ像(右)
聖ツィリル(コンスタンティノス 修道士名キュリロスのチェコ語読み キリルはロシア語読み)と聖メトジェイ(メトディウスのチェコ語読み)はスラヴの人々が自分たちの言葉で礼拝できるように礼拝式を整備しただけでなく、スラヴ語を表記できる文字を作ってスラヴ文化の礎を築いたためスラヴ世界ではもっとも重要な人物としてあがめられています。
ミュシャは20代のミュンヘン時代にアメリカのチェコ系教会からの依頼で「聖ツィリルと聖メトジェイ」の祭壇画を制作しました。そのころのミュシャの関心を反映してバロックの影響が顕著なだけでなく、この作品には後の挿絵、ポスター、そして「スラヴ叙事詩」にいたる"ミュシャ・スタイル"のほとんどの要素の萌芽が見られます。
ミュシャ特有のポーズの表現もすでに現れています。このポーズには少年時代にミュシャが毎日目にしていた聖ペテロ像が反映され、ミュシャが早くからバロック様式にひかれていたことがよくわかります。
聖ツィリルと聖メトジェイ
油彩 1885年頃