ミュシャ作品
日本各地を巡回しているチェコの個人蔵による「ミュシャ展」展示物の中に「ポスター《イヴァンチッツェ地方の見本市》のための習作」、「生まれ故郷、イヴァンチッツェの思い出」と題するものがあり、ともに「イヴァンチッツェ聖母被昇天教会の教会塔」をモチーフにする重要な作品のデッサン、原画ということになります。
しかし『イヴァンチッツェの思い出』の原画オリジナルはモラヴィア国立美術館(Moravská galerie v Brně)所蔵で、ふだんはイヴァンチッツェ市のミュシャ記念館に展示しており、個人の所有物ではありません。
両展示物に描かれている「塔」は、一見イヴァンチッツェに実在の教会塔に似ているようで実はかなり違っていて、「塔」を知らない者がミュシャの絵をなぞって写したことがわかります。
この「塔」は、ミュシャの故郷イヴァンチッツェ市のシンボルであるだけでなく、外敵の来襲から町を護る中世の望楼を教会の鐘楼にした歴史があり、9世紀頃から町の歴史とともにあったムハ(ミュシャ)一族らイヴァンチッツェ市民の誇りであるとともに、塔のすぐ前で生まれ鐘の音を聴いて育ったミュシャ個人にとっても人生を通して節目ごとに向き合ってきた、まるで自分自身を映す鏡のような大切な存在でした。その塔を雑に描くなどデッサン力に優れるミュシャにはあり得ません。
イヴァンチッツェ市のミュシャ記念館には、ミュシャが18才の時に描いた『塔』の絵があります。18才のミュシャは、ブルノから戻って父の配慮で裁判所書記になりましたが、役人には不向きと自覚してプラハの美術学校入学を希望するも「才能がない」という理由で受験すら許されないまま戻ったあと書記の職もクビになり、新聞広告で舞台美術工房の職を得てウィーンに向かう大きな転機にありました。希望と不安のなかで向き合って描いた『塔』です。
『イヴァンチッツェの思い出』の「塔」の脇には遠景にもうひとつ小さな教会堂が見え、そこに目が行くように描いています。イヴァンチッツェの歴史の重要な教会堂です。「ミュシャ展」展示物にも教会堂らしいものが添えられていますが、これを描いた人物は、イヴァンチッツェ聖母被昇天教会もこの教会堂の歴史も理解しないで、おそらく過去の展覧会図録の図版をそのままトレースしたのでしょう。また『イヴァンチッツェの思い出』のツバメの群れはデザインの要なのですが、引き写した者はミュシャのデザインもその意味も全く理解していません。
「素描 ポスター《イヴァンチッツェ地方の見本市》のための習作」も、ポスターあるいは図版をなぞったもので、2人の少女もモラヴィアの少女ではありません。両展示物にはミュシャ作品の品位、繊細な美しさは見られません。
ミュシャの好きな人による悪意でなく写したものがコレクターの手に渡った可能性も考えられますが、それをミュシャ作品として扱えば贋作になります。
ほかにも、ミュシャにありえない描き方の明らかな贋作、偽造サイン、作品タイトルの間違い、ミュシャでない絵や工芸品、複製品、残欠などを多数展示しており、美術館ではあってはいけないたいへん残念な展覧会です。
※右側の画像をクリックすると拡大して見られます。
ミュシャが「イヴァンチッツェの教会塔」を描くとき、群れ飛ぶツバメを添えていることが多い。
軒先に巣を作って子育てにいそしみ、季節とともに渡りをするツバメには、「希望」や「家庭」、「喪失」、「再生」、「めぐる季節」など、さまざまな象徴的意味が古代から与えられてきた。
ミュシャの「ツバメ」も、作品によってニュアンスの違いはあるにしても、重要な意味を伝えている。
上左 『イヴァンチッツェの地方展』ポスター(部分)
上右 『クラリッツェ聖書の印刷』(『スラヴ叙事詩』(部分)
左 『10月 旅立つツバメ』
(ココリコ誌の『12ヶ月』から)(部分)
18才のミュシャが描いた『イヴァンチッツェ聖母被昇天教会の塔』
水彩 (1878年)
『イヴァンチッツェの想い出』(オリジナルは1903年の水彩画)
1906年にイヴァンチッツェ市が発行したポストカード
ミュシャが幼いころに恋心を抱き、14才で亡くなった少女を描いたとされる。