ミュシャ

 「サラ・ベルナールのポスターを描くチャンスに恵まれ、一夜にしてパリ中でもっとも有名な画家になった」という「伝説」を持つアルフォンス・ミュシャ(1860-1939)は、豊かな才能に恵まれ、その才能を遺憾なく発揮した「世紀末の幸運児」といわれます。彼ほどのラッキーボーイはないと今なお羨望の的です。
 しかし本当にそうだったのでしょうか? ミュシャ自身も幸運に恵まれて生涯を送ったと思っていたでしょうか?


圧政下のチェコに生まれる
 ミュシャの祖国チェコは1471年からずっと外国人の領主が支配し、1620年以降は300年近くにわたってオーストリア帝国の領土でした。厳しいゲルマン化政策のため、当時のチェコ公立学校ではドイツ語による教育が行われ、チェコ人もチェコ文化もチェコ語も劣ったものとされていました。
 そのような時代にミュシャは南モラヴィアの片田舎イヴァンチッツェの裕福ではない家庭に生まれました。
ウィーンの工房を解雇され、放浪生活へ
 「歩き始める前から絵を描いていた」といわれ、幼いときから絵の才能を発揮していたミュシャは、プラハの美術学校進学を希望して作品を送りますが、「才能がない」という理由で受験することもかないませんでした。父親の援助で裁判所書記に採用されたものの裁判記録を絵で表現してクビになり、せっかく得た職も失ってしまいます。
 
新聞広告で知ったウィーンの劇場大道具工房「カウツキー・ブリオシ・ブルクハルト」に就職、仕事をしながら夜間の絵画教室に通って勉強していました。ところが得意先のリンク劇場が焼失して工房の仕事がなくなり、一番若いミュシャは真っ先に解雇されました。
 失意のミュシャは故郷に帰ることもできず、南ボヘミアの田舎町で似顔絵描きなどしながらあてもなく放浪していたところ、後にパトロンになる貴族クーエン=ベラシ伯爵と偶然出会いました。
学費の援助が途絶えて挿絵画家となる
 城館での絵画修復や制作を伯爵の友人に認められ、学費と生活費の援助を得てミュンヘン、続いてパリで勉強する幸運に恵まれたものの、伯爵の仕送りが1889年で突然打ち切られてしまいました。
 ミュシャは生活のためにやむなく書籍や雑誌の挿絵・表紙などの仕事をはじめました。挿絵の仕事を始めて1年もたたないうちに緻密で的確なデッサンと 緊張感ある画面構成が注目され、ミュシャはフランス最高の挿絵画家と肩をならべて評価されるようになります。
しかし、生活は楽ではありませんでした。
クリスマス休暇もなく
 1894年の暮、クリスマス休暇をとる余裕のないミュシャは友人カダールに代わってリトグラフ印刷所で彼の仕事の仕上げをしていました。その時印刷所に大女優のサラ・ベルナールからポスターの依頼が舞い込んできたと伝説では言われています。有力な画家たちはクリスマス休暇で誰もいないので、仕方なく印刷所長はたまたまそこに居合わせたポスター経験のないミュシャに描かせました。
 その頃の流行とは違うミュシャの風変わりなデザインに印刷所長はサラ・ベルナールに断られるに違いないと なかばあきらめながらミュシャの下絵をサラに見せました。
ところが意外にも彼女が気に入ってくれホッとしながら印刷したところ、パリの街にポスターが貼り出されると同時にパリ中で大評判になったのです。このポスターはミュシャとサラ・ベルナール、2人の芸術家に幸運をもたらしました。

 肖像画の失敗

 ポスターの成功をきっかけに、ミュシャはアール・ヌーヴォーの中心的な画家として世界中で注目されデザインの注文が殺到するようになりました。
 しかし自分自身ではアール・ヌーヴォーの画家と考えていなかったミュシャは、「芸術を通して祖国に貢献したい」との夢をいだいてライフワークの『スラヴ叙事詩』制作の資金を得るためにアメリカに渡りました。

 上流社会の人々の肖像画を描いて資金を得るというミュシャのもくろみは、すでにサージェントが活躍していて機会を得られないまま挫折してしまいます。模索しながらヨーロッパとアメリカを行き来していたところ、「大作20点からなる『スラヴ叙事詩』を制作してプラハ市に寄贈する」というミュシャの計画に賛同してくれる親スラヴ派のシカゴの富豪チャールズ・クレインとようやく出会い、ボヘミアのズビロフ城をアトリエに借りて大作の制作にかかりました。

 時代遅れの

 チェコとスラヴ民族の歴史の諸場面を描いた6×8メートルもある畢生の超大作20点が、1911年から1928年まで18年の年月をかけてようやく完成した時、祖国はすでに10年前の1918年にチェコスロヴァキア共和国として独立を果たしていて、『スラヴ叙事詩』は文字通り無用の長物となっていました。
 また20世紀の美術界は抽象画や表現主義のモダンアートの時代に移行していて、象徴的表現で描いたミュシャの超大作の歴史画は時代遅れなものになっていたのです。

 ふたたび祖国を失う

 300年の苦難の時代の末の祖国独立に立ち会い、新しく誕生したチェコスロヴァキア共和国と国民のために紙幣や切手をデザインしたことはミュシャにとってたいへん幸せなことでした。しかしそれからわずか20年後、1939年にはナチス・ドイツが侵攻してチェコスロヴァキア共和国は解体させられ、ミュシャが亡くなったときチェコはドイツの占領下にあり、祖国は存在していませんでした。
 第二次大戦が終わってチェコはナチスの支配から解放されますが、1948年には共産主義化してソヴィエト連邦の圧制下に置かれ、チェコがふたたび自分たちの国を回復するのはミュシャが亡くなって50年後の1989年でした。
 その頃になってようやく、異国の日本で開催した「ミュシャ展」
(1989年4月〜1990年7月 開催)が契機となって『スラヴ叙事詩』は、スラヴの歴史だけでなく人類普遍のメッセージを描く重要な作品であることが世界中の人に理解され始めたのです。

 失意の中の

 ミュシャの幸運は、そのほとんどが失望や絶望のさなかにやむを得ず選んだ行動がたまたま成功に結びつく結果となったものです。ミュシャ自身は ほとんどいつも「自分はついてない人間だ」と考えていたのではないでしょうか?
 もしミュシャの運がよくて、プラハの美術学校に入学できていたら、 ウィーンで劇場が焼失せず解雇されていなかったら、 伯爵の援助が打ち切られることなくクリスマス休暇をとる余裕があったら、「アール・ヌーヴォーの華 アルフォンス・ミュシャ」はなかったかもしれません。
そして私たちが今このようにすばらしい作品を楽しむこともなかったでしょう。
 ラッキーだったのはミュシャではなくて、ミュシャの美しい作品に恵まれている私たちなのかもしれません。

パリで住んでいたヴァル・ド・グラース街
アトリエは左側の黒い手すりの建物2階。
 下は、ミュシャが1896年から1903年までここに住んでいたことを伝える銘板。

 伯爵からの援助が突然打ち切られてミュシャは打ちのめされました。しかし、30才になるミュシャの自立を促す伯爵の意図をすぐに理解して挿絵の仕事を始めました。伯爵とは援助の打ち切りで終わったとされていますが、そのあともパトロネージュを越えた関係が長く続きました。
 後年、『スラヴ叙事詩』制作中に少なくとも2回
(1912年と1925年)、ミュシャはエゴン・クーエンベラシ伯爵のもとを訪れて歓談し、「ガンデグでの若い時代は生涯で最も充実し楽しい時期だった」と感謝の気持ちを伝えています。

 またウィーンの舞台美術工房カウツキー・ブリオシ・ブルクハルト工房は、1881年に得意先のリンク劇場が全焼してミュシャら職人たちを解雇せざるを得なくなりましたが、回復の目途が立つと真っ先にミクロフのミュシャを訪ねて復帰を要請しました。しかしその頃、ガンデグでの仕事に集中していたミュシャは伯爵のもとに残ることを選びました。
 ミュシャは1920年代にウィーン訪問の際、カウツキー・ブリオシ・ブルクハルト工房を訪れ、ウィーン時代の礼を述べています。

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フルショヴァニーのクーエン=ベラシ伯爵館で描いた油絵の『衝立』

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