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MORT DE SAINT ADALBERT  
聖アダルベルトの死 997年

アダルベルトはポーランド国王の依頼で領内のプロイセン人への布教に尽力した。遺骨が安置されているポーランドでは独自の切手も発行した。(1997年)

聖アダルベルト殉教1000年を記念して1997年に5ヶ国が共同発行した切手
左から、ヴァチカン市国、チェコ共和国、ポーランド共和国

聖ヴォイチェフ(聖アダルベルト) 殉教950年
チェコスロヴァキアの切手 1947年

1000年記念
 1997年、ヴァチカン市国、チェコ、ポーランド、ドイツ、ハンガリーで聖アダルベルト殉教1000年を記念する同一デザインの切手を共同発行しました。
聖アダルベルト(聖ヴォイチェフ 956頃-997)
 956年頃にボヘミア
(チェコ)中部で生まれたアダルベルトは、現ドイツのマクデブルクで学んだあと983年にプラハ司教になりました。ボヘミア王プジェミスル家に対抗する貴族出身だったためプラハでは政治対立に巻き込まれ、ハンガリーの貴族、後のイシュトバーン1世とその父ポーランド公で後にボヘミア公にもなったボレスラフ(ポーランドではボレスワフ1世)の庇護のもとそのころはまだ異教徒だったプロイセン(現ドイツ)人たちへの宣教活動に力を注ぎました。ポーランドもハンガリーも共にアダルベルトによってキリスト教に教化されました。
 ボヘミア名はヴォイチェフですが、マクデブルクで学んだ大司教アダルベルトに名前をもらって改名したため、ポーランド、チェコでは洗礼名のヴォイチェフと呼び、フランスなど西欧諸国では司教名でアダルベルト
(アダルベルトゥス アダルベール)と呼んでいます。
 997年、バルト海沿岸に住むプロイセン人に布教しているとき、異教徒との信仰の対立からケーニヒスベルク辺り
で殉教しました(「ケーニヒスベルク(王の山)」という地名はボヘミア王オタカル2世にちなむ。現在はロシアの飛び地領カリーニングラード)。アダルベルトを宣教のために派遣したカトリック教会によってわずか2年後の999年に聖人に列せられます。
 殉教したアダルベルトの遺骨は聖遺物としてポーランドそしてプラハに送られてそのどちらにも墓があり、国民的聖人として両国で崇敬されています。
(かし)と髑髏(どくろ)
 挿絵『聖アダルベルトの死』を見ると、倒れたアダルベルトと樫の木の太い根元にうち捨てられた髑髏
(どくろ 頭蓋骨)が目に入ります。樫の木は、プロイセン人が信仰していた神木をアダルベルトが霊性を否定して切り倒したために殺されたことを示しています。
 頭蓋骨は、
ポーランドとボヘミア(チェコ)両国の対立から聖アダルベルトの頭蓋骨がポーランドとプラハの2ヶ所それぞれにあるという矛盾を示唆しているのかもしれません。あるいは手前の髑髏に注目させるように樫の根を這わせ数多くの髑髏を対比させる構図から、ミュシャもプラハ新市街の聖ヴォイチェフ教会に安置しているものが正統な聖アダルベルトの聖遺骸と主張しているようにも見えます。構図によって髑髏に注目させる手法は『ジスモンダ』以後のミュシャ・スタイルポスターのテクニックになっていきます。
 聖ヴォイチェフ教会は、プラハのオルガン学校で学んだドヴォジャーク
(ドヴォルザーク Antonín Leopold Dvořák 1841-1904)がオルガニストをつとめていた教会としても有名です。

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