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 デンマークの天文学者。ルドルフ2世に宮廷付占星術師として招かれ、晩年はプラハ城で活動した。
 望遠鏡のない時代に肉眼の観測で非常に高い精度の観測データを残した。
 超新星発見や大彗星の優れた観測により天動説に矛盾する事実を指摘しつつも、天動説の立場を離れることなく、占星術的解釈にとどまった。
 17世紀初め頃は、占星術と天文学はまだ分かれていなかった。科学としての天文学は、惑星を観察する「西洋占星術」から生まれたといえる。
 ティコ・ブラーエの墓は、プラハ旧市街広場近くの「ティーンの前の聖母マリア教会」にある。

RODOLPHE II ET SON ASTROLOGUE
ルドルフ2世と彼に仕える占星術師

ドイツ史

 プラハでティコ・ブラーエの助手をつとめ、師ブラーエの死後は後任の「宮廷付占星術師」としてルドルフ2世につかえた。
 プラハに来る以前から地動説を支持していたが、惑星の運行を明らかにする「ケプラーの法則」は、ブラーエの膨大な観測データなしには生まれなかった。
 惑星の楕円運動を数学モデルで明らかにする「ケプラーの法則」は後の古典物理学につながっている。
 上は、2009年世界天文年および「ケブラーの法則」(第一および第二)を収める『新天文学』刊行400年の記念切手。

ヨハネス・ケプラー
(1571-1630)

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ティコ・ブラーエ
(1546-1601)

ルドルフ2世
(1552-1612)

 ハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国皇帝、ハンガリー王、ボヘミア王。プラハ城を居城とした。(皇帝在位1576-1612)
 高い教養を持ち美術品や世界の珍しい宝物の蒐集など文化的にはすぐれた役割をしたが、統治者としては無能だった。精神的疾患もあって弟のマティアスに王位を譲らざるを得なくなった。
 宗教や政治問題へのルドルフ2世の対応のまずさが後の30年戦争(1618-1648)の遠因にもなっている。

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