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 プレスブルクは現在のブラティスラヴァ、スロヴァキア共和国の首都です。当時はハンガリー王国の首都で、ハンガリー語ではポジョニと呼んでいました。
 マリア・テレジアはハプスブルク家の継承をめぐってプロイセンなどとのオーストリア継承戦争に巻き込まれ窮地に立たされていました。
 画面は1741年9月11日、ハンガリー議会に支援を訴えるマリア・テレジアです。オーストリアでは、ハンガリーは弱体化したオーストリアに敵対するだろうと見ていましたが、マリア・テレジアは幼児のヨーゼフ
(後の神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世)を膝にハンガリー貴族に向かって涙ながらに支援を訴え、兵力、指揮官、軍資金、軍糧の提供を取り付けることに成功しました。
 これによりイギリスやオランダからも支持を得て、ハプスブルク・オーストリアは苦境を抜け出すことができました。見返りにマリア・テレジアはハンガリーに対して特権や自治権を認めましたが、これは後の"アウス・グライヒ
"("妥協"1867年)と呼ばれるオーストリア・ハンガリー二重帝国成立の遠因にもなり、チェコはじめ領内のスラヴ民族の不満につながって、さらには、『ドイツ史』が書かれたよりも後の時代ですが、第一次世界大戦を経てハプスブルク・オーストリアの崩壊、チェコスロヴァキア共和国独立へつながると考えることもできます。
 1743年、マリア・テレジアはプラハ聖ヴィート大聖堂で戴冠してボヘミア
(チェコ)王となりますが、継承戦争で敵対側に協力したチェコに対しては厳しい姿勢の支配を終生つらぬきました。

マリア・テレジア
1717-1780

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MARIE-THÉRÈSE A PRESBOURG
プレスブルクのマリア・テレジア 1741年

ドイツ史

 オーストリア大公。チェコ王、ハンガリー王。
 "女帝"と呼ばれるが、神聖ローマ皇帝は夫のロートリンゲン公フランツ1世だったので正しくは"女帝"ではない。しかしハプスブルク家初の女性当主であり、実際には彼女が統治者だった。
 11女5男、16人の子どもを産んだ。フランス革命で処刑されたマリー・アントワネットは末娘。

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