すべての人に
 "すべての人に芸術を届けたい"、そう考えていたミュシャは、大量に安く刷られるリトグラフで作品を制作しました。それが装飾パネル
panneau décoratifです。サラ・ベルナールのポスターで有名になったミュシャは、誰でも買える安価な装飾パネルによってさらに広まりました。現代であれば印刷で制作したでしょう。
 装飾パネルは、室内に飾って楽しむものです。ポスターと同じく、リトグラフでプリントしますが、装飾パネルには宣伝の文字はありません。大きさも、部屋に飾ることができるサイズで、1枚わずか3~10フランという安価なものでした。数量を限定して番号を入れ、値段をつり上げようなどとは、ミュシャには思いもよらなかったことです。
 「芸術はすべての人のもの」と考えるミュシャと、シャンプノワ・リトグラフ工房の技術によって完成度の高い装飾パネルが広く普及しました。
アール・ヌーヴォーと呼ばれて
 "すべての人に芸術を"という考えは、アール・ヌーヴォー運動が目指す「生活の芸術化」、「芸術の大衆化」の理念と一致します。世界にアール・ヌーヴォーが広まる時期に、人気がもっとも高かったミュシャは、「アール・ヌーヴォーの華」といわれますが、ミュシャ自身は、"自分の芸術はアール・ヌーヴォーではない"と考えていました。「芸術は常に新しい」と考えていたミュシャには、"新しい芸術"を意味するアール・ヌーヴォー Art Nouveau という言葉は矛盾していると思えたのと、作品は自分独自のやり方であって、けっしてアール・ヌーヴォーのスタイルで描いたのではなかったからです。
 しかし、ミュシャ作品の魅力である装飾性、工芸性、象徴性、エキゾチシズム、機能的、大衆性、日本美術の影響などは、どれもアール・ヌーヴォーの特徴とされます。自分のスタイルで描いたのですが、すべての人々に彼の作品が受け入れられて、「ミュシャ・スタイル」がアール・ヌーヴォーと呼ばれるようになったのです。
ジャポニズム
 
太い輪郭線、単純化された色の面、写実性と装飾性の調和など、装飾パネルには、日本美術と共通点がいくつも見られ、「羽根」と「桜草」、「つた」と「月桂樹」、あるいは「四季」、「四つの花」、「四芸術」、「四つの星」 などの連作装飾パネルは、"屏風"を連想させます。しかしミュシャ自身は、「日本美術の影響はない」と考えていました。
 自分では否定していますが、当時のほとんどすべての画家が日本美術の影響からのがれられなかったように、ミュシャも例外ではありません。 実際、アトリエには日本の甲冑を飾ったりしていました。
ミュシャ・スタイル
 ミュシャが日本美術に触れたのは、おもに1889年のパリ万博、挿絵画の資料、同じところで絵画教室を開いていたホイッスラー
(James Abbott McNeill Whistler 1834-1908)などを通してでした。ただミュシャの場合、扇子や提灯を描くような単純なジャポニズムではないので、一見しただけでは、それが日本美術の影響とは見えませんと。日本美術の特質を自分のスタイルに昇華して表現しているため、影響を受けているとは、ミュシャ自身も思っていなかったのでしょう。 

「神奈川沖浪裏 富嶽三十六景」
(1830-1833年)
葛飾北斎 (1760-1849)

「第2回マーネス協会展」 (1898年)
アルノシュト・ホフバウアー
(Arnošt Hofbauer 1869-1944)

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装飾パネル

 右は、1898年にプラハ・トピチューヴサロンで開かれた、チェコ最大の美術家グループ「マーネス協会」展のポスター。
 「ジャポニズムの波から若い画家たちを救え」という意味が込められている。そのようなキャンペーンをはらなければならないほど、美術界のみならず、欧米の社会全般で日本美術・日本文化の影響は広く深かった。

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