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 右は、1898年にプラハ・トピチューヴ・サロンで開かれたチェコ最大の美術家グループ「マーネス協会」展のポスター。
 「ジャポニズムの波から若い画家たちを救え」という意味が込められている。そのようなキャンペーンが必要だったくらい、美術界のみならず欧米の社会全般で日本美術・日本文化の影響は広く深かった。

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装飾パネル

すべての人に
 「芸術をすべての人に届けたい」、そう考えていたミュシャは、安く大量に刷ることができる「リトグラフ」で作品を制作しました。それが「装飾パネル
panneau décoratif」です。1枚わずか3~10フランと気軽に誰でも何枚でも買える値段でした。数を限定して番号(エディション・ナンバー)やエンボスを入れたり、原価1,000円もしない複製リトグラフを数百倍もの高額で販売することは、ミュシャには思いもよりませんでした。現代であればミュシャは印刷で制作したでしょう。サラ・ベルナールのポスターで知られるようになったミュシャは、誰でも買える安い「装飾パネル」とともに広まりました。
 装飾パネルはポスターと同じリトグラフですが、宣伝の文字はありません。サイズも部屋に飾ることができる大きさです。「芸術はすべての人のもの」と考えるミュシャとシャンプノワ・リトグラフ工房の技術によって美しい装飾パネルが広く普及しました。
ミュシャ・スタイル
 「すべての人に芸術を」というミュシャの考えは、アール・ヌーヴォー運動が目指す「芸術の大衆化」、「生活の芸術化」の理念と一致します。アール・ヌーヴォーが世界に広まる時代に人気がもっとも高かったミュシャは「アール・ヌーヴォーの華」と呼ばれますが、ミュシャ自身は「自分の芸術はアール・ヌーヴォーではない」と考えていました。「芸術は常に新しい」と考えていたミュシャには、「新しい芸術」という意味の「アール・ヌーヴォー Art Nouveau 」という言葉は矛盾していると思えたのと、作品は自分独自の「ミュシャ・スタイル」であって、「アール・ヌーヴォー」スタイルで描いたのではなかったからです。
 しかし、ミュシャ作品の魅力である「装飾性」、「工芸性」、「象徴性」、「エキゾチシズム」、「機能的」、「大衆性」、「日本美術の影響」などは、どれもアール・ヌーヴォーの特徴とされます。
 自分のスタイルで描いたのですが、彼の作品がすべての人々に受け入れられて「ミュシャ・スタイル」が「アール・ヌーヴォー」と呼ばれるようになったのです。
日本美術
 
太い輪郭線、単純化された色の面、装飾性と写実の調和など、「装飾パネル」には日本美術と共通点がいくつも見られます。さらに、『羽根』と『桜草』、『つた』と『月桂樹』、あるいは『四季』、『四つの花』、『四芸術』、『四つの星』などの連作装飾パネルは「屏風」を連想させます。しかしミュシャ自身は「日本美術の影響を受けていない」と考えていました。
 自身では否定していますが、当時のほとんどすべての画家が日本美術に影響されていたように、ミュシャも例外ではありません。 実際、アトリエに日本の甲冑を飾ったりしていました。

 ミュシャが日本美術に触れたのは、おもに1889年のパリ万博、挿絵画の資料にした和本、また絵画教室を同じところで開いていたホイッスラー
(James Abbott McNeill Whistler 1834-1908) を通してなどでした。ただミュシャの場合、扇子や提灯を描くだけの単純なジャポニズムではないので、一見しただけでは日本美術の影響とは見えません。ミュシャは日本美術の特質を理解して自分のスタイルに昇華しているため、自身でもそれが日本美術の影響だとは思えなかったのでしょう。 

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羽根 桜草

『第2回マーネス協会展』 (1898年)
アルノシュト・ホフバウアー
(Arnošt Hofbauer 1869-1944)

『神奈川沖浪裏 富嶽三十六景』
(1830-1833年)
葛飾北斎 (1760-1849)

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