レスリー・カーター夫人
「レスリー・カーター夫人」は、舞台女優キャロライン・ルイス・ダッドレー(Caroline Louise Dudley 1857–1937)のステージ・ネームです。彼女は富豪のレスリー・カーター氏と18才で結婚し、9年後に莫大な慰謝料を得て離婚しましたが、離婚後もその名前を使って演劇活動を続けました。
ブロードウェイ
彼女は1908年に『カッサ』という演劇をブロードウェイでプロデュースします。『カッサ』は、『傷ついた蝶』という古いハンガリーの乙女の物語をジョン・ルーサー・ロング(John Luther Long 1861-1927)が脚色した演劇です。
ミュシャは、カッサがベラ王子に裏切られて過ぎた日々を修道院で回想する場面をポスターにしています。戯曲を書いたジョン・ルーサー・ロングはアメリカの小説家で弁護士、プッチーニのオペラ『蝶々夫人(Madame Butterfly )』の原作者として有名です。
レスリー・カーターの依頼でミュシャは ポスターだけでなく舞台衣装や舞台美術など250点ものデザインを提供しました。
彼女の名前は数々のスキャンダルで有名になったものの、芝居は不評に終わり、ミュシャも台本作者のロングも謝礼以上の報酬を得ることはありませんでした。
シンボル
ポスターには、ユリ、トゲのある輪、ハートを思わせる赤いカブ、コクリコなどさまざまなシンボルが描かれています。 修道院を表わすユリをはじめこれらのシンボルは『カッサ』の物語を暗示すると同時に、ミュシャが生涯を貫いて描き続けたメッセージの表現でもあります。
『サロン・デ・サンでの
ミュシャ展』 ( 部分)
『レスリー・カーター』 (部分)
『スラヴ叙事詩』より
『スラヴ語の礼拝式導入』 (部分)
レスリー・カーター夫人を名乗る
キャロライン・ルイス・・ダッドレー
『カッサ』 の上演プログラム
『ジャンヌ・ダルク』 (部分)
1909年
『プラハ市民会館壁画』 (部分)
1912年
『ズデンカ・チェルニー』 (部分)
1913年
ユリ
『フレンドシップ』 から
ユリ
『レスリー・カーター』 から
コクリコ
『プラハ産業建築見本市』 から
コクリコ
『レスリー・カーター』 から
『カッサ』の戯曲を書いたジョン・ルーサー・ロングは、プッチーニのオペラ『蝶々夫人 Madam Butterfly』の原作者でもある。
宣教師夫人で長崎にいた姉のサラ・ジェニー・コレルの手紙で「蝶々さんの悲劇」を知ったジョンが短編小説にし、劇作家で興行師のデイヴィッド・ベラスコが戯曲化した芝居を見たプッチーニがオペラにした。
オペラ化にあたり、プッチーニは川上貞奴の公演をミラノで観劇し、日本音楽の楽譜を駐イタリア日本公使夫人から提供してもらい研究している。
左は、2点ともオペラ初演時(1904年2月17日 ミラノ・スカラ座)のポスター。
『レスリー・カーター』 (部分)
『スラヴィア 母性の書』 扉
ミュシャ・コラム
「寄せ集めのミュシャポスター」