アメリカへ
1906年の秋、ミュシャはシカゴとニューヨークの美術学校で講義をするために新婚の妻とともにアメリカに渡りました。
シカゴでは、作曲家で音楽院を創設したチェコ系アメリカ人チェルニー(Albert Vojtěch Černý)の家に滞在しました。チェルニーの3人の娘はそれぞれ音楽的才能に恵まれ、ミュシャは楽器を持った彼女たちの肖像を何点も描いています。とくに次女のズデンカ(Zdeňka Černý 1895-1998)は10才頃からオーケストラと共演するなど演奏活動をしていて、彼女が大きく成長したときにはポスターを作ることを約束していました。
幻の
ズデンカは1914-15年のシーズンにヨーロッパに演奏旅行をすることになり、ミュシャはチェロを持った彼女の写真をもとにポスターを描いて約束をはたしました。左右110cmもある肖像の下に 「ズデンカ・チェルニー 最も偉大なボヘミアのチェリスト」 と英語で書いた文字部分を貼りあわせると高さ190cmの大型ポスターになります。ヨーロッパ・ツアーがプラハからスタートする予定だったこともあり、チェコ時代のミュシャポスターのほとんどを印刷したプラハのノイペルト印刷所で制作しています。
しかし1914年に第一次世界大戦が勃発して、ロンドン経由でプラハに入り父とのリサイタルを一、二度開いたものの、ツアーを中止してシカゴに帰らざるを得ませんでした。そのためポスターは「幻のポスター」となりましたが、ミュシャとチェルニー家の友情の証として残されました。
ミュシャはチェロの前と背景にユリの輪を飾っています。ユリはズデンカの若さを、花の環は連帯のシンボル、ソコルを意味し 「希望」 をあらわしています。現在残っているポスターにはズデンカ・チェルニーのサインのあるものがいくつかあります。ツアーもポスターも幻になりましたが、彼女のミュシャへの気持ちがサインに込められています。
帰米後にシカゴ交響楽団と予定していたサンサーンスの協奏曲協演も大戦の余波で中止になりました。
ズデンカは1998年に102才の高齢で亡くなりましたが、ツアー中止後チェロを手にすることはなくなり、ミュシャのポスターにのみ記憶を残す「幻のチェリスト」になりました。
音楽
この頃のミュシャは『スラヴ叙事詩』制作を進めながら多数のポスターを手がけていて大変多忙でした。『ズデンカ・チェルニー』 のほか 『モラヴィアの教師合唱団』、 『プラハ春の歌と音楽の祭典』など音楽に関わる重要なポスターを続けて制作しており、そのいずれもが無償でなされた仕事でした。
ズデンカ・チェルニー
(1895-1998)
ミュシャ・コラム
「寄せ集めのミュシャポスター」