2度、さらに・・・
ユリのティアラを飾る『遠国の姫君』のメリザンド姫に扮するサラ・ベルナールを描いたこのポスターは2つの目的で作られました。「ラ・プリュム」誌のサラ・ベルナール記事を宣伝するためと、1896年12月9日の「サラ・ベルナールを讃える会」を知らせるポスターです。さらにラ・プリュム芸術出版社は、文字を刷っていない装飾パネルを愛好者のために販売しました。
豪華なユリのティアラも衣装も『遠国の姫君』の扮装のままに描いているのは、記事のタイトルが「遠国の姫君」だったからでしょう。ミュシャがサラ・ベルナールを描いたもう1点のポスター『ルフェーヴル・ユティルのビスケット』も『遠国の姫君』の扮装で描いています。
「明星」の挿絵にも
『サラ・ベルナール』のポスターが日本の文芸美術雑誌「明星」の挿絵になっているのはよく知られています。
1900年(明治33)の「明星」第6号誌上で与謝野晶子(鳳晶子)の短歌『雁来紅』の挿絵にミュシャの『サラ・ベルナール』がはじめて登場し、その後もくり返し掲載しています。おそらく与謝野鉄幹はじめ「明星」のデザイナー、一條成美、藤島武二らが与謝野晶子の短歌の世界にアール・ヌーヴォー的な魅力を鋭敏に感じとっていたからでしょう。
ただし、「明星」の挿絵はポスター、装飾パネルからではなく、「ラ・プリュム」誌の挿絵を参考にしました。「明星」誌自体も、創刊から第5号までタブロイド判だったのが、ミュシャが登場する第6号からは「ラ・プリュム」誌と同様の、現代のB6判に近い判型スタイルに変わっています。
没後100年
サラ・ベルナールは1923年3月26日に亡くなりました。昨年、没後100年の2023年には展覧会、講演会が世界各地で開かれました。
ミュシャと出会う以前の1880年代から90年頃に舞台で足を怪我したのが悪化して1915年に右足を切断。晩年は座ったままの演出で演技し、映画女優としても活躍を続けていましたが、映画「La
Voyante」に出演中に、息子のモーリス(Maurice Bernhardt 1864-1928) に看取られてパリで亡くなりました。
フランス大統領列席のもとパリ市葬が行われ、その様子は日本でも報道されました。
サラの墓があるパリ・ペール・ラシューズ墓地には、ショパン、ロッシーニ、ビゼー、ドラクロワ、オスカー・ワイルド、アポリネール、イサドラ・ダンカン、モディリアニ、エディット・ピアフ、マリア・カラスらが眠っています。
サラ・ベルナールの死を伝える日本の新聞
1923年
「明星」 第6号(1900年)から
「鳳晶子」は 与謝野晶子 結婚前の筆名
「明星」 第6号 表紙
表紙絵 一条成美(1877-1910)
『ルフェーヴル・ユティルのビスケット』 ポスター
ロワンテーヌ姫に扮するサラ・ベルナール
与謝野晶子 (1878-1942)
ヨーロッパから帰国した頃 1910年代
『サラ・ベルナールと息子モーリス』
2人の肖像画のデッサン
1900年頃
『遠国の姫君』 ロワンテーヌ姫に扮する
サラ・ベルナール(ポストカード)
『サラ・ベルナール』
「ラ・プリュム」誌のポスター
『サラ・ベルナール』
「サラ・ベルナールの日」のポスター
『サラ・ベルナール』
文字を刷っていない装飾パネル
ミュシャ・コラム
「寄せ集めのミュシャポスター」