伝説のポスター
 ミュシャは、初めて手がけたポスターの 「ジスモンダ」 で一夜にしてパリ中に知られるようになったといわれています。
 クリスマスに ルメルシエ・リトグラフ印刷所で休暇中の友人に代わって仕事をしていた時たまたまサラ・ベルナール
(Sarah Bernhardt 1844-1923)から電話が入って… という話はあくまで伝説であって本当は少し異なるようですが、このポスターがミュシャの成功へのきっかけになったのは事実です。
目立ったから
 当時、パリの街に貼られている 「ジスモンダ」 のポスターを実際に見 たブライアン・リード(Brian Reade )は「細長く等身大に近い姿が地面から数インチのところに貼られたのでとてもドラマチックだった。派手な原色で注意を引く代わりに繊細な色合いで目立った」と記しています。
 当時は後に「ポスターの父」と呼ばれるジュール・シェレ
(Jules Cheret 1836-1932)のポスターが全盛の時代でした。原色で動きのある「シェレの美女」は遠くからでもよく目につくため町の人々、広告主両方の人気を集めていました。
 「ジスモンダ」も下絵では 赤や黄色を使っていましたが、完成したポスターでは色彩を抑えることによって受難劇にふさわしい重厚で伝統的な雰囲気を感じさせるのに成功しています。
 画面構成の基本は下絵とポスターで大きな変化はありません。しかしポスターの効果を計算したデザインは色彩以外にもいくつか重要な変更がなされています。ミュシャとサラに成功をもたらす決定的な変更でした。
シュロの日曜日
 ジスモンダは「女神のごときサラ」、「聖なる怪物」といわれた大女優サラ・ベルナール主演の演劇のポスターです。物語の舞台は1451年のキリスト受難週第1日のいわゆるイェルサレム入城の日、 シュロの葉を手に ジスモンダ が劇中で誓いの宣言のために行列に加わろうとしているクライマックスを描いています。
 日本語の聖書では「シュロの日曜日」としていますがイエスのイェルサレム入城を歓迎する民衆が手にしていたのは シュロ(棕櫚)ではなくナツメヤシ(棗椰子)の枝でした。ミュシャのポスターでも ジスモンダが手にしているのはもちろんナツメヤシで、ポスター・デザインの重要な役割を負っています。(ナツメヤシは「サマリアの女」のポスターでも大切な役目が与えられています。)シュロと訳したのは誤訳というより、明治に聖書(ヨハネによる福音書)を翻訳する際、日本にはないナツメヤシのかわりに南日本で見られる植物のシュロをあてたものがそのまま定着したのでしょう。
目立ったから… それだけで?
 繊細な色合いと重厚な安定感のある「ジスモンダ」は確かにパリの街角では目立ちました。しかし"目立つ"というそれだけの理由で世紀の大女優サラ・ベルナールが無名のミュシャといきなり6年もの専属契約を結ぶでしょうか?
 ポスターのジスモンダ
(サラ・ベルナール)は目を少し上向けてナツメヤシを見ています。ポスターを見る人はサラの顔から目に導かれナツメヤシの葉をたどって上に向かいタイトルの"GISMONDA"と"(SARAH)BERNHARDT"の名前をアーチに沿って読み、次にサラの肩から左下の方へ衣装をたどって劇場の名"THEATRE DE LA RENAISSANCE"を知ります。上半身を少しだけ傾けて立つサラのポーズも右上から左下へ目の動きを誘い、さらに衣装の垂れ下がった端がまるで矢印のように劇場名に注目させます。
 ポスターははじめてというのに演劇のタイトル、女優の名前、劇場名を記憶させてしまうミュシャのデザイン力をライバルの俳優や劇場に渡すわけにはいかない。ウィーン時代や挿絵画家の経験を通して磨かれたミュシャの演劇的センスをも見抜いたサラは契約によってミュシャを独占したのです。
 縦長の画面に描いた全身の立像、絵と文字を分離させた古典的な画面、単純化した表現と細部の描写、写実と装飾性の調和、見る者の目を巧みに誘導する構図のテクニックなど、ミュシャはこの一作でサラ・ベルナール・ポスター、ミュシャ・ポスターのスタイルを確立しました。 

アイリス
 ジスモンダはジャーマンアイリス(和名 ドイツアヤメ)の花を頭に飾っています。
  アイリスはとがった葉が聖母マリアの胸を刺し貫く悲痛の剣とされ 古くから受難のシンボルです。同時に勇気と知恵の象徴であり、フランスの国花のひとつにもなっています。また花の名の"アイリス"は虹の女神イリスにちなむものでイリスが地上に降りてアイリスの花に姿を変えたといわれます。
 受難劇の主人公ジスモンダにアイリスの花を飾らせたのはおそらくサラ・ベルナールでしょうが、虹を連想させるアーチと重ねてアイリスの意味を伝えるようデザインしたのはミュシャでした。頭に飾る花で画面の女性が象徴するものを示すのはミュシャの特徴的な表現方法であり、「ジスモンダ」は"花のティアラ"のミュシャ・スタイルのスタートとなる記念すべき作品です。
閉じ込めたい
 ルメルシエからミュシャは幸運をもらったといえます。それなのにその後はすべてのリトグラフをシャンプノワなど他のリトグラフ工房で制作しており、ルメルシエは「ジスモンダ」1点だけです。 何があったのでしょう。 「ジスモンダ」 の印刷枚数についてルメルシエがサラ・ベルナールに対して契約違反をおかし、そのためにルメルシエはサラ・ベルナールとミュシャの両方を失いその後のビジネスチャンスものがしました。
 ルメルシエとサラ・ベルナールはもちろん大きなきっかけでしたがミュシャを有名にしたのはサラではありません。むしろサラは専属契約でミュシャを閉じ込めたかったのです。
 ルメルシエとの裁判以降ミュシャはカミ工房、ついでシャンプノワ工房でポスターを制作することになりサラのポスターもシャンプノワで制作しています。シャンプノワがたくさんの注文を持ち込んだおかげで私たちが数多くのポスターや装飾パネルを楽しむことができるのは確かです。しかし、シャンプノワもミュシャの優れたデザイン力を独占するために契約でしばりました。
 アールヌーヴォー華といわれるほどのミュシャの成功はレオン・デシャン
(Léon Deschamps1863-1899)との出会いからです。ラ・プリュム芸術出版社社主のデシャンはサロン・デ・サンというギャラリーを持ち、出版と展覧会を通じてパリの美術界に影響力を持っていました。シャンブノワとも親しかったデシャンのおかげでミュシャの活動と人脈が広がっただけでなく、画家として自分の使命を強く認識する契機にもなりました。デシャンは1899年に亡くなりますが「ジスモンダ」以降チェコ時代にいたるまでミュシャに影響を深く与えた人物です。
 

椿姫
ロレンザッチオ
メディア
サマリアの女
トスカ
ハムレット
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レオン・デシャン
(Léon Deschamps1863-1899)

  「ジスモンダ」のポスター依頼をミュシャのところに持ち込み、そしてミュシャの才能を見抜いたルメルシエの印刷所長モーリス・ド・ブリュノフは、日本でも絵本やアニメでも親しまれている 「ぞうさんババール」 の作者 ジャン・ド・ブリュノフ (1899-1937) の父親です。 ジャンはモーリスの末っ子でした。(上はフランスのババール記念切手)

「ジスモンダ」 ポスターの下絵 (油彩)
プラハ国立美術館 蔵

ズデンカ・チェルニー
ブルックリン美術館のミュシャ展
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カサンフィス印刷所
サロン・デ・サン第20回展
ランスの香水ロド
ジョブ
サラ・ベルナール
サロン・デ・サンでのミュシャ展
モナコ・モンテカルロ
ムース川のビール
トラピスティーヌ酒
ウェイヴァリー自転車
遠国の姫君

ジスモンダに扮するサラ・ベルナール

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ミュシャ・コラム
「寄せ集めのミュシャポスター

シガリロ・パリ Los Cigarillos Paris

1905年リエージュ (ベルギー) 万博のポスター
ジスモンダを模しているが、ティアラのアイリスはベルギーを表すバラに変えられ、「シュロ」 は下の地図を指し示している。

ジスモンダ   1894年 リトグラフ

ポスター