「伝説」のポスター
ミュシャは初めて手がけたポスターの『ジスモンダ』で一夜にしてパリ中に知られるようになったといわれます。
「1894年のクリスマスに、休暇中の友人カダールに代わってルメルシエ・リトグラフ印刷所で仕事をしていた時、たまたまサラ・ベルナール(Sarah Bernhardt 1844-1923)から電話が入って……」という話はあくまで「伝説」であって事実ではありませんが(ミュシャが最初にサラを描いたのは1890年の『クレオパトラ』。またミュシャは1894年10月の『ジスモンダ』初演を紹介する雑誌記事のイラストを描いている。)、『ジスモンダ』のポスターが成功へのきっかけにつながったのは事実です。
「目立ったから」
「細長く等身大に近い姿が地面から数インチのところに貼られたのでとてもドラマチックだった。派手な原色で注意を引く代わりに繊細な色合いで目立った」とブライアン・リード(Brian Reade)は記しています。
当時は、後に「ポスターの父」と呼ばれるジュール・シェレ(Jules Cheret 1836-1932)のポスターが全盛の時代でした。原色で動きのある「シェレの美女」は遠くからでもよく目につくため、町の人々、広告主両方の人気を集めていました。
『ジスモンダ』も下絵では 赤や黄色の原色を使っていましたが、完成したポスターでは色彩を抑えて、受難劇にふさわしい重厚で伝統的な雰囲気を感じさせるのに成功しています。
画面構成の基本は下絵から大きな変更はありません。しかし、ポスターの効果を計算したデザインは色彩以外にもいくつか重要な変更がなされました。ミュシャとサラに成功をもたらす決定的な変更です。
「シュロ」の日曜日
『ジスモンダ』は、「女神のごときサラ」、「聖なる怪物」と呼ばれた大女優サラ・ベルナール主演の演劇ポスターです。物語の舞台は1451年のアテネ。終幕のキリスト受難週第1日、いわゆる「シュロの日曜日」、「イェルサレム入城の日」にアテネ公妃ジスモンダが誓いの宣言のため大聖堂(パルテノン神殿 当時はローマ・カトリック教会の聖堂だった)に向かうクライマックスの場面をポスターに描いています。
日本語の聖書では「シュロの日曜日」としていますが、イエスのイェルサレム入城を歓迎する民衆が手にしていたのは「シュロ(棕櫚)」ではなく「ナツメヤシ(棗椰子)」の枝でした。ミュシャのポスターでもジスモンダが手にしているのは「ナツメヤシ」の枝です。
砂漠地帯でもよく育ち果実の「デーツ」は甘く乾燥保存できて、葉、幹、樹液が食用、酒、薬用、化粧品、衣料、染料、建材として有用な「ナツメヤシ」は、すでに紀元前10世紀頃のメソポタミアで「豊穣」、「勝利」の象徴、「生命の樹」、「聖樹」とされ、さまざまに変形しながら世界各地に伝わって正倉院宝物はじめ日本の文様にもその影響を見ることができます。
ビザンツ帝国でも「永遠の生命」の象徴でした。初期のキリスト教では、「死への勝利」、「復活」の象徴として「ナツメヤシ」は殉教のシンボル、殉教者のアトリビュート(持物)になりました。「シュロ」にはそのような意味はありません。(ナツメヤシは『サマリアの女』のポスターでも大切な役目が与えられている。) 『ジスモンダ』の「ナツメヤシ」は、構図の重要な役割とともに「犠牲」、「復活」という演劇のメッセージを伝えるポスターデザインのかなめになっています。
「シュロ」としたのは誤訳というより、明治に聖書(ヨハネによる福音書)を翻訳する際、日本にはない「ナツメヤシ」のかわりに南日本で見られる植物の「シュロ(ワシュロ 和棕櫚)」をあてたものがそのまま定着したのでしょう。
目立ったから…?
繊細な色合いと重厚な安定感のある『ジスモンダ』は、パリの街角では確かに目立ちました。しかし「目立つ」という理由だけで大女優サラ・ベルナールが無名のミュシャと6年もの専属契約をいきなり結ぶでしょうか?
ポスターのジスモンダ(サラ・ベルナール)は目をわずかに上向けてナツメヤシを見ています。ポスターを見る人は、サラの横顔から視線の方向に導かれナツメヤシの葉をたどって上に向かい、アーチにそってタイトルの「GISMONDA」と「(SARAH)BERNHARDT」の名前を読み、次に肩から衣装の流れをたどってななめに左下にむかい、劇場名の「THEATRE DE LA RENAISSANCE」を知ります。わずかに上半身を傾けて立つサラのポーズも右上から左下へ目の動きを誘い、さらに衣装の端の垂れ下がった部分が劇場名へ目線をまるで矢印のように誘導して注目させます。
はじめてポスターをてがけたというのに、演劇のタイトル、女優の名前、劇場名を記憶させてしまうミュシャのデザイン力をライバルの俳優や劇場に渡すわけにはいかない。さらに、ウィーン時代や挿絵画家の経験を通して磨かれたミュシャの演劇的センスをも見抜いたサラは、契約によってミュシャを独占したのです。
縦長の画面に描いた全身の立像、絵と文字を分離させた古典的な画面、単純化した表現と細部の描写、写実と装飾性の調和、見る者の目を巧みに誘導する構図のテクニックなど、ミュシャはこの一作でサラ・ベルナール・ポスター、ミュシャ・ポスターのスタイルを確立しました。
アイリス
ジスモンダは頭に「ジャーマンアイリス(和名 ドイツアヤメ)」の花を飾っています。
アイリスは、とがった葉が聖母マリアの胸を刺し貫く悲痛の剣とされ、古くから受難のシンボルです。同時に勇気と知恵の象徴であり、フランスの国花のひとつにもなっています。また花の名の「アイリス」は虹の女神イリスにちなみ、イリスが地上に降りてアイリスの花に姿を変えたといわれます。
受難劇の主人公ジスモンダにアイリスの花を飾らせたのはおそらくサラ・ベルナールでしょうが、虹を連想させるアーチと重ねて「アイリス」の意味を伝えるようデザインしたのはミュシャでした。頭に飾る花で画面の女性が象徴するものを示すのはミュシャの特徴的な表現方法であり、『ジスモンダ』は「花のティアラ」のミュシャ・スタイルのスタートとなる記念すべき作品です。
閉じ込めたい
ミュシャはルメルシエ印刷所から幸運をもらったといえます。それなのにその後はすべてのリトグラフをシャンプノワなど他の印刷所で制作していて、ルメルシエは『ジスモンダ』1点のみです。何があったのでしょう。
ルメルシエはサラ・ベルナールに対して『ジスモンダ』のポスター印刷枚数で契約違反を犯し、そのためにサラ・ベルナールとミュシャ両方を失い、ビジネスチャンスも逃しました。
ミュシャにとってルメルシエとサラ・ベルナールはもちろん大きなチャンスでしたが、ミュシャを有名にしたのはサラではありません。むしろサラは独占契約を結ぶことでミュシャを閉じ込めたかったのです。
ルメルシエとの裁判以降、ミュシャはカミ印刷所、ついでシャンプノワ印刷所でポスターを制作することになり、サラのポスターもシャンプノワで制作しています。シャンプノワがたくさんの注文を持ち込んだおかげで今日私たちが数多くのポスターや装飾パネルを楽しむことができるのは確かです。しかし、シャンプノワも優れたデザイン力を独り占めするためにミュシャを契約でしばりました。
「アールヌーヴォーの華」といわれるほどのミュシャの成功はレオン・デシャン(Léon Deschamps1863-1899)との出会いからです。ラ・プリュム芸術出版社社主のデシャンは「サロン・デ・サン」というギャラリーを持ち、出版と展覧会を通じてパリの美術界に影響力を持っていました。シャンプノワとも親しかったデシャンのおかげでミュシャの活動と人脈が広がっただけでなく、画家としての使命を強く認識する契機にもなりました。
デシャンは1899年に亡くなりますが、チェコ時代にいたるまでミュシャに影響を深く与えた人物です。
ジスモンダに扮するサラ・ベルナール
『ジスモンダ』 ポスターの下絵 (油彩)
プラハ国立美術館 蔵
1905年リエージュ (ベルギー) 万博のポスター
ジスモンダを模しているが、ティアラのアイリスはベルギーを表すバラに変えられ「シュロ」 は下の地図を指し示している。
『ジスモンダ』のポスター依頼をミュシャに持ち込み、ミュシャの才能を見抜いたルメルシエの印刷所長モーリス・ド・ブリュノフは、絵本やアニメで日本でも親しまれている
『ぞうのババール』 の作者 ジャン・ド・ブリュノフ (Jean de Brunhoff 1899-1937) の父親。ジャンはモーリスの末っ子だった。
(上はフランスの『ババール』 記念切手)
ミュシャ・コラム
「寄せ集めのミュシャポスター」